見て歩く日本の城と史跡ー愛知県岡崎市(1)

松平3代目信光が本拠地とした岩津城跡(岩津町字東山)

徳川・松平氏にとって重要な岩津城は、発掘調査などは行われておらず、
孟宗竹が生い茂っていました。
それでも徳川家康の6代前の松平信光築城の城とあって、感慨ひとしおでした。
岩津天満宮にも行く予定が道が逸れてしまい、行かずじまいでした。
                          (19/ 5/13 訪問)

(現地案内板より)

向こうの小山が岩津城と思われます。 岩津天満宮の鳥居

鳥居を潜って進むと、右の案内板があり道が二手に分かれていました。
それで左の道を進むと、個人のお宅らしい庭に紛れ込んでしまいました。
そのお宅の方に伺うと、お庭を通していただけて、岩津城跡への道順を教えていただけました。

左:バス通りへ  右:岩津城
帰りはここから左の道を下城しました。

本丸に続く右の道
道の左右に空堀

本丸虎口
本丸
虎口に向かって右側に土塁らしきものがあって
その上に『岩津城』の石碑があります。


先ほどの左側の道を下って、バス道に戻りました。

徳川四天王の一人本多忠勝誕生地(西蔵前町字峠)

本多忠勝誕生地を見つけるのは難しいとネットにあったのですが、
ご親切な地元の方に教えていただけて、楽に見つけることができました。
本多忠勝誕生地の碑は、一般の民家の庭先にあります。
                       (19/ 5/13 訪問)


  岡崎市指定文化財
史跡 本多忠勝誕生地
 徳川四天王に数えられる本多平八郎忠勝の生誕地である。本多氏は松平2代康親に仕えて以来、代々殊功を
あげた。祖父忠豊・父忠時の時代には蔵前に居住し、天文17年(1548)忠勝はここで生まれたとされている。
 「ただ勝のみ」という願いをこめて名付けられた本多忠勝は、永禄3年(1560)大高城(名古屋市緑区)攻めで
初陣、それ以後生涯で57回の合戦に出陣したが、ただの一度も負傷しなかったといわれている。家康の家臣の
中でも抜群の戦上手であり、桶狭間の戦いから大阪冬の陣まで家康とともに全ての戦を戦い抜き、開幕時には、
桑名10万石を与えられた。以後子孫は姫路藩(兵庫県)、浜田藩(鳥取県)などを経て、明和6年(1769)岡崎
藩に封じられ、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地を治めた。
 現在この地に建てられている記念碑は、大正4年に子孫である本多忠敬氏によって建立されたものである。
  昭和37年6月15日指定                  岡崎市教育委員会
(現地案内板より)


徳川四天王の一人酒井忠次の居城だった井田城跡(井田町字城山)

『井田城の伝記』を読んで、有志の皆さまの熱い想いにとても感動しました。
徳川四天王の中でも一人だけ年長で、どちらかというと地味なイメージだった
私にとっての酒井忠次でしたが、俄然関心が大きくなりました。
『井田城の伝記』を多くに人に読んでいただきたいと思いました。
                        (19/ 5/13 訪問)

 井田城の伝記
 往昔、此処に井田城あり。岡崎城防衛に重要なる拠点の砦なり。応仁の乱後の城主は
名君の誉高き酒井左衛門丞忠勝公、康親公、忠親公、忠善公、忠次公の酒井家五代なり。
 此のあたりは井田野と称し、応仁元年、明応元年、天文4年、永禄3年等百有余年の
永きに亘り陰惨なる死闘の繰り返されし合戦の地なり。戦国乱世の激しき攻防の渦中にあり
て、この城に拠れる祖先は城主と共に勇戦奮闘よくその本領を発揮し、三河武士の真髄と
井田城の威厳を天下に示す。中でも忠次公は徳川四天王の一員なり。千軍萬馬を往来し
武名四州にあまねく勇将の亀鑑として青史に名をとどむ。暫くして家康公全国を統一せり。
然れども此の陰に一翼を担いし武勲の井田城、勇猛果敢なりし一族郎党傷つき斃れし
多くの家臣も、風に花の○の如く歴史の流れと共に消え去りぬ。されどその栄誉は燦と
として輝きとこしえに不滅なり。
 斯くのごとき史実を想起し、公の尊き栄光の地を継ぐ我等、在りし日の井田城並びに歴代城
主の遺徳を偲び、敵味方多数の戦没勇士の冥福を祈りつつ、古き伝統のこの地域に永遠の
平和と繁栄を希い、之を後世に伝えんが為、この碑を証に建立せり。
    昭和51年3月7日                 勇士一同建立  常楽書        
(現地案内板より 以下も同じです。)



井田公園の東側の道から少し登ったところに
井田城址があります。

左の石碑の向って右に小さな郭があります。

かなり広い本丸

稲荷神社の鳥居




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