見て歩く日本の城と史跡ー愛知県新城市

武田勝頼が落とせなかった長篠城(長篠)

長篠城は、今川氏と誼のある菅沼氏の居城だったのですが、
元亀2年(1571) 徳川家康の傘下に入りました。
しかし、武田軍による三河侵攻により、やむなく武田軍に屈服しました。

元亀4年(1573)、上洛途中にあった武田信玄は病が悪化したため、
武田軍は甲府に戻らざるをえなくなり、その帰途信玄は死去しました。

そのドサクサの中、徳川家康によって攻められた長篠城は陥落し、
家康は長篠城をとりもどしたことになります。
天正3年5月21日(1575年6月29日)、1万5千の兵を率いた武田勝頼が、
徳川軍の奥平信昌がわずか500の手勢で守る長篠城を攻め、これが長篠の戦いの始まりです。
長篠城は、寒狭川(現豊川)と宇連川合流する断崖絶壁の上に築かれた城ですが、
それほど、攻め難い城ではなかったという話があります。
しかし、長篠城を陥落できぬまま、織田信長、徳川家康の連合軍と合戦することとなり、
勝頼軍は大敗してしまいました。
武田軍の勇猛な将が多くここで討ち死にしましたが、勝頼はどうにか甲府に戻ることができました。
この敗北によって、武田氏は滅亡への道を辿ることになります。
この合戦で名を残した武将はたくさんありますが、特にこの3人、鳥居強右衛門、馬場美濃守信春
山縣三郎兵衛昌景(全員死亡)をこのページで取り上げます。
    (14/ 3/19 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)



長篠城見取り図(城内案内板より)

二の丸 帯郭

帯郭から見る本丸
本丸

本丸

勝頼本陣跡医王寺から
流れ込む矢沢(本丸から覗く。)

 
    本丸から覗く鳥居強右衛門磔死の碑
寒狭川の対岸の平地にあります。




奥平軍500の兵で守る長篠城が、
天正3年5月には勝頼が率いる1万5000の武田軍に包囲されました。
最初は、篭城戦の構えだった奥平軍は、兵糧庫を焼かれたことにより落城寸前になりました。
奥平貞昌は、家康のいる岡崎城に援軍要請しようと考えたのですが、
武田軍の包囲は厳しく不可能に思われました。
その時、足軽の鳥居強右衛門がこの難しい役目を名乗り出ました。

強右衛門は泳ぎが得意だったので、川を潜って渡り、無事岡崎城に辿りつきました。
そのとき、岡崎城には織田信長が3万の兵を率いてやってきており、
織田・徳川の連合軍は武田軍との決戦のため出発の準備をしているところでした。
その吉報を早く味方に伝えたいと強右衛門は、同じ道を長篠城に戻ったのですが、
その途中武田軍に捕まってしまいました。
勝頼は強右衛門に「援軍は来ない。城を明け渡せ。」と伝えるように命じたのですが、
強右衛門は、その逆「援軍は、2、3日で来る。」と大声で伝えました。
怒った勝頼は、強右衛門を磔にしました。
それを見た奥平軍は大いに奮い立ち、援軍が来るまでの2日間、
持ちこたえて城を守り抜きました。
強右衛門の忠義の心が、織田・徳川連合軍に勝利をもたらしたのです。


宇連川の向こうの武田軍の布陣(城内の案内板より)


徳川軍酒井忠次が急襲した鳶ヶ巣山 左が鳶ヶ巣山

 
 本丸と帯郭の間の堀

   土塁の上にある『長篠城址』の碑
巴城郭

武田勝頼伝説「さかさ桑」

武田氏滅亡の始まりとなった設楽原の古戦場(設楽原)



 解説
天正3年(1575年)旧暦5月長篠城を取り囲んでいた武田勝頼は包囲を解き、茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川
を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に
設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死に等
損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退するなかで、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでした。
新東名高速・設楽ヶ原Pの案内板より


勝頼本陣登山道(医王前案内板より)

勝頼本陣遠景
勝頼陣所と長篠城(医王寺前案内板より)

勝頼陣所本曲輪から見た設楽原

勝頼は最初医王寺の裏山に本陣を置きました。
合戦になってから山を下り、少しづつ本陣を移動させています。


場防柵の存在を知っても攻撃を止めなかったと書かれていますが、
本当にそんなことがあったのだろうか、と信じがたい気持ちです。

武田四天王のうち参戦しなかった高坂弾正以外の3名を
討ち死にさせたのですから、武田の命運も尽きたということでしょう。
武田ファンにとっては、馬防柵を見るのは、辛いものがあります。


勝頼陣所本曲輪

織田軍の馬防柵

徳川軍の馬防柵
土塁・空堀のある馬防柵

 
     甘利郷左衛門信康の墓
(上田原の合戦で戦死した甘利虎康の次男)

土屋植右衛門尉昌次の墓

道端にひっそり佇む山縣三郎兵衛昌景の墓

この地に『山縣』の名が残りました。
 
     伝山縣三郎兵衛息継ぎの井戸

山縣正景は武田四天王の一人。享年46歳でした。
赤の鎧・兜に身を固めた『赤備え・山縣隊』は、徳川家康をも震え上がらせました。
戦況不利と判断して、同じく四天王の一人内藤昌豊と撤退を勝頼に進言したところ、
「いくつになっても命は惜しいのか。」と皮肉られ、敵陣突入して討ち死にしました。
このとき息子の昌次も戦死しています。
『赤備え』は、後に真田信繁(幸村)によって、受け継がれました。


右より 真田源太左エ門尉信綱、真田兵部丞昌輝
鎌原筑前守之綱
常田図書春清
禰津甚平是広 の墓
真田信綱(享年39歳)、真田昌輝(享年33歳)は、真田幸隆の長男と次男で、
真田信繁(幸村)の伯父に当たります。


馬場美濃守
武田四天王の一人で享年60歳。
武田軍が敗走余儀なくされたとき、殿(しんがり)を務め

無事武田勝頼を甲府へ逃がしました。
美濃守は、武田軍にあって武川衆でかつては教来石影政と名乗っていました。
勇猛だった原美濃守没後、美濃守の名を受け継ぎました。
殿を務めて勇猛果敢に戦う姿を見た織田信長は感じ入って、
「美濃守を手厚く葬るよう。」と命じたとのことです。

馬場美濃守の墓は長篠城近くにあります。

馬場美濃守信春の墓

堀無手衛門の墓

小幡上総介信貞の墓

武田大塚

織田・徳川小塚
この時、信玄は亡くなっていましたが、設楽原の合戦での戦死者の墓を信玄塚と呼んでいます。
大きいほうが戦死者が多かった武田軍の『大塚』、小さい方が織田・徳川の連合軍の『小塚』。



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