見て歩く日本の城と史跡ー千葉県亥隅郡大多喜町

本多忠勝が築いた大多喜城跡(大多喜481)


本多忠勝イメージ
 徳川四天王の一人、本多忠勝が築城した大多喜城に関心があり、やっと出かけることが
できました。しかし、忠勝本人は10年程の在城後、桑名に移封となったので、忠勝の遺構
は二の丸に残る『大井戸』のみだと分かりました。本丸付近に残る『土塁』『空掘』は、
もしや!と思ったのですが、忠勝以前にあった城の遺構だと教わり、ややがっかりです。
 大多喜城の建築物は、唯一大河内松平氏時代のものだと言われる『薬医門』が、二の丸
跡に建てられた大多喜高校に移築復元されています。『大井戸』と『薬医門』は、大多喜
高校の構内に入って見学ができます。
 本丸には、模擬天守が造ってありますが、これは博物館として使われています。
                           (22/10/28 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

城内の案内板に、2枚の大多喜城絵図があります。
その絵図を上が北になるように回転させて、現在の地図と比べてみました。
1000フィート=304.8m

千葉県立中央博物館大多喜城分館からいただいた資料より

200フィート=60.96m



まずは、本丸跡から見学を開始しました。
本丸は、大多喜高校の西側の小高い部分で、模擬天守が建てられており博物館になっています。
本丸跡と思しき場所に『二の丸公園』があるのですが、『二の丸公園』という名の公園があっても
ここも本丸跡だろうと自分に納得させました。




空堀は、本多忠勝以前のものだそうです。

右に進むと鐘楼があります。


 二の丸公園と聞くと、ここが大多喜城の二の丸だったのかと思って混乱しましたが、単に
公園の名前であって、大多喜城の二の丸跡という意味ではないようです。二の丸公園は、
本丸と八幡社出丸を分断する低い場所(空掘り?)にあります。
 かつて、八幡社出丸にあった八幡社は、廃城の時に、大手門の近くに移転しました。
現在は、八幡社出丸には、鐘楼があります。




土塁跡も本多忠勝以前のものだそうです。

大手門跡の近くから見た本丸模擬天守(博物館)




大多喜高校のある場所が、大多喜城の二の丸だそうです。
校内には必見の『大井戸』と『薬医門』があります。
本丸跡からは直接校内に入れたかもしれませんが、ぐるっと回りました。

大井戸と薬医門は、『二の丸跡』にあるのに、『本丸跡』とあるのは、なぜ?
大多喜城分館の学芸員の方が、説明して下さいました。でも、知識のない素人には分かりにくく、最初見た時
「えっ、ここが本丸?」と、大混乱しました。
附』は、『つけたり』と読み、『本題に付随する別の事項を加える』という意味があります。
『大井戸』と『薬医門』は、本題である『上総大多喜城本丸跡』に付随する別の事項だということです。






背面 正面



大手門跡と水掘跡は、私の大関心スポットです。

100フィート=30.48m

水堀跡と思われますが、今はアパートが建っています。

かつては案内板があった大手門跡 坂を登っていくと八幡神社が見えます。



大多喜町の史跡(大多喜)

お城の外にも見るべきところがありましたが、時間が足りなくて残念でした。
                         (22/10/29 訪問)

幕末に解体された大手門を建材の一部に使った伊勢幸酒店の店舗兼主屋と由来がありそうな根小屋公園
200フィート=60.96m



『根小屋』という言葉に反応して何か由来があるのかと、問い合わせてみましたが、何もないということでした。

本多忠勝のお墓と銅像は、時間に押されて見に行けませんでしたので、
グーグルから画像をお借りしました。
200フィート=60.96m



本多忠勝の大多喜城の元となった根小屋城跡(泉水193−5)

 千葉県に行ったのは初めてで、恥ずかしながら歴史もよく知りませんでした。
何かあるだろうと根小屋城行ってみました。城跡と言っても少し高い所に40畳(?)くらいの平らな柵で
囲った土地が残っているだけでした。石碑があったのですが、何が書いてあるかとても読めません。
 帰宅して撮ってきた写真を画像修正したのが、下の画像です。これを読むと本多忠勝が登場し、ほん
の少しながら、この地の歴史に触れた気がしました。          (22/10/29 訪問)






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