見て歩く甲斐武田氏の史跡ー群馬県高崎市(1)

武田信玄と果敢に戦った長野業正の名城箕輪城(箕郷町)

上杉謙信と川中島の戦いを3度くりひろげた武田信玄は、
謙信との戦いに決着が着きにくいと考えて、西上野への侵攻を考えました。
信玄は武田勝頼の初陣を含め、何度も長野業正の箕輪城を攻めましたが、
守りの堅い箕輪城に戦さ上手の長野業正がいたのでは、攻めあぐみ城を落とすことはできませんでした。
長野業正は、関東管領上杉憲正の家老で、上杉の屋台を支える存在でした。
しかし、謙信との最大の戦であった第四次川中島の合戦の年に、業正は病死しました。
業正の息子業盛も父の意志を継いで信玄と戦ったのですが、第五次川中島の合戦の後、
業盛は、信玄に敗れて、長野一族は滅亡しました。

後に、箕輪城の城主となった井伊直政は、箕輪城を近代城郭に改造しましたが、
慶長3年(1598)、井伊直政は高崎城を築城し、そのとき箕輪城は廃城となりました。
箕輪城の歴史は80余年、井伊直政が城主だったのは8年です。 

因みに、海野平の合戦で、武田、諏訪、村上の連合軍に負けて真田の荘を追われた真田幸隆は、
6年程箕輪城で長野業正の庇護を受けて暮らしていました。      (14/11/10 訪問)

搦手から見る箕輪城
(現地案内板より 以下も同じです。)


箕輪城見取り図


駐車場から続く搦手口

二の丸

二の丸の説明
二の丸

 
大堀切

郭馬出

郭馬出と発掘時の写真

木俣

私が訪問した後、郭馬出し西口虎口が復元されました。

多分赤城山

大手門と本丸に続く階段
右の階段の先。大堀切となっている。

三の丸

三の丸に残る石垣


本丸の西側・蔵屋敷

 
 
本丸 西虎口

本丸西虎口から見下ろす蔵屋敷と通路

通路から見上げる本丸西虎口
 
本丸堀の橋台
 本丸から倉屋敷に出る橋の脚を立てた台で
堀はここでせまくなっている。
 南側に石垣が昔のまま残っている。
昭和59年1月   箕輪町 
本丸から蔵屋敷に橋があったという。 御前曲輪・西石垣


 御前曲輪・西石垣の発掘調査当時の様子

御前曲輪北堀

御前曲輪

御前曲輪の井戸

 
   再建された井戸


本丸北虎口案内板

本丸北虎口
本丸の案内板 本丸北虎口から下って振り返る。

広い本丸

本丸を囲む土塁 本丸を囲む土塁に石垣が・・。

  
鍛冶曲輪の石垣

 
井伊直政が名づけた虎トウ門  



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