高崎城乾櫓の由来 |
この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御楼と呼ぶ)と並んで、本丸堀 |
の見ずに影を投じた姿がしのばれる。 |
高崎藩に伝えられる「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓造りになし2階もなく土蔵 |
などのごとくなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取?り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとあ |
る。従って重博在城の元禄8年(1695年)より○○から存在したことが明らかである、多分、安藤重長が城主 |
であった寛永のころの建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。 |
幸いにこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小島町梅山氏方に移り、納屋に用いられてい |
たからである。所有者の梅山太平氏が市に寄付の意を表され県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2 |
年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから北方300mの位置に当る。 |
屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するものと高崎城のものを模造したものである。 |
また○は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した○にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季 |
近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。○○○○○○○○はほとんどなかった。この |
石垣は土○○○○○○を〇めないよう止むを得ず築いたもので、〇〇〇〇〇○上に1m足らずの高石台があ |
ったに過ぎない。 昭和52年5月 高崎市教育委員会 |