見て歩く甲斐武田氏の史跡ー群馬県高崎市(2)

上杉謙信と武田信玄の合戦の場となった和田城(現高崎城)のその後(高松町)

高崎城の前身は平安時代末期に和田義信が築城したと言われる和田城です。
上杉氏に帰属していた和田氏は、永禄」4年(1561)上杉氏に反旗を翻し、武田信玄の傘下に入ります。
上杉謙信は度々和田城に侵攻したのですが、武田信玄の支援もあり和田業繁はよく耐えました。
その後北条氏に属した和田氏ですが、小田原で北条氏が滅亡すると和田城は、秀吉配下に包囲され落城、廃城の運命を辿ります。


箕輪城主となっていた井伊直政は、箕輪城を廃城とし家康の命で改修した和田城に移ってきました。
このとき、城の名は和田城から高崎城に変わりました。
関ヶ原の合戦後、高崎城の城主は目まぐるしく変わりましたが、
大河内松平氏を城主として幕末を迎えました。
現在、高崎城址は美しい公園となっていて、江戸時代の建築物がわずかに残っています。
                                             (14/11/10 訪問)


  
(現地案内板より  以下も同様です。)

高 崎 城 址
 箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より転したのは、慶長3年(1598)のことだった。
築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松ヶ崎と改称しようとし、竜広寺の往持白庵に相談した。
白庵は諸木には栄枯があることを説き、「成功高大」の意味から高崎と名づけるよう進言し、これが採用された。「高崎」の
名前はこうして誕生したと言われる(川野辺寛 『高崎史』)。
 この地にはかつて和田氏による和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り囲まれる
形で築かれたと言われており、坪数5万1613坪にも及ぶ広大な城郭になった(土屋老平 『更生高崎旧事記』)。築城に
合わせ、城下の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町で
ある。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と塀も築かれた。


























 



































 














崎城乾櫓の由
 この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御楼と呼ぶ)と並んで、本丸堀
の見ずに影を投じた姿がしのばれる。
 高崎藩に伝えられる「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓造りになし2階もなく土蔵
などのごとくなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取?り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとあ
る。従って重博在城の元禄8年(1695年)より○○から存在したことが明らかである多分、安藤重長が城主
であった寛永のころの建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
 幸いにこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小島町梅山氏方に移り、納屋に用いられてい
たからである。所有者の梅山太平氏が市に寄付の意を表され県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2
年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから北方300mの位置に当る。
 屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するものと高崎城のものを模造したものである。
 また○は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した○にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季
近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。○○○○○○○○はほとんどなかった。この
石垣は土○○○○○○を〇めないよう止むを得ず築いたもので、〇〇〇〇〇○上に1m足らずの高石台があ
ったに過ぎない     昭和52年5月                高崎市教育委員会

高松城址公園







 

崎城東門の由
 高崎城16の城門中、本丸門(崔門)、列橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸
がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の2度、火災により焼
失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸○○○○通れるようになっ
いる。門は築城当時のものよりかなり低くなっており乗馬のままでは通れなくなっている
この門は明治のはじめ当時名主であった横山氏方に払い下げられ、市内下小島町の梅
山大作氏の門となっていた。
 高崎市のライオンズクラブは創立10周年事業としてこれを梅山氏からゆずりうけ復元
移築し、昭和55年2月市に寄贈したものである。
          昭和55年3月                高崎市教育委員会 

高松城址公園

東門

 

武田信玄が築いた根小屋城(山名町城山)

元々あった城を修復・改築したというのではなく
武田信玄が築いた城だということに興味がありました。
遠くから見て、狼煙台にもぴったりという感じです。
ハイキングを楽しめる道を登りましたが、
城そのものは草に覆われて遺構などが良くは分かりませんでした。
かつては調査が入ったあとが窺え、改めて数ある山城の保存の難しさを感じました。

                                 (14/11/10 訪問)
 

根小屋城遠景

山名城と根小屋城の位置関係(現地案内板より)
(現地案内板より 以下も同じです。)

根小屋城址

武田信玄の財宝
 世に名高い川中島の合戦は信○○善光寺平であるが、この附近においても天文18年(1549)新たに武田信玄
の手に加わった上州の先手を案内し○甲軍が西上州に侵入した三寺○○○以来、甲越両軍の激突は永禄○○年
(1566)上杉方の牙城○○落城まで続いていた。信玄は数年後この山名丘陵にの一部に狼煙城を築いている。○
○の上州の諸将を監視するためである。その城は現在根小屋城と呼ばれている保塁城である。
 ところでその頃尊厳は、上州○○軍資金を根小屋城近くの尾根に○○、事に備えたという話が伝わっている。古老
の話では、その場所で足を踏むと地下は空洞で音が響くので鳴るが尾根というそうである。
 10年ほど前、麓○村で戦国の〇銭を拾った小児のことが新聞に載ったことがある。

本丸(右側)を回る道

進行方向右が本丸
階段から1/3回転くらい来たところ 階段から半回転くらい来たところ
ここから本丸(右側)に登ります。

ここからは、上の曲輪です。


本丸から見た高崎市街

根小屋城の支城として使われた山名城(山名町2166番地)

山名氏が築いた城だということです。
応仁の乱で有名な山名宗全はその一族であると、麓の山名八幡宮に記されていました。
元亀3年(1572)以降は木部氏の要害城として使われていたようです。
木部氏はその後武田信玄に仕えました。
山名城から尾根伝いに歩くと武田信玄が築城した根小屋城がありますが、
山名城はこの時期に根小屋城の支城として使われていたのでしょう。
木部範虎は武田勝頼に忠節を尽くし、長篠の戦いに参戦後、
天正10年(1582)勝頼と運命を共にしました。
   (14/11/10 訪問)

山名城址
(現地案内板より)

山名宗全と山名八幡宮
 応仁の乱の西軍の指揮を執った山名宗全の祖が当社を造営した山名義範である。義範は新田
氏の祖、新田義重の子でこの山名郷に入り山名氏の祖となった。史書(吾妻鑑)には随所に名が
記され、源頼朝の御家人として活躍した。この神馬蔵は、全国の山名氏のの末裔が奉納したもの
で、神馬は西国を向いている。
(山名八幡宮案内板より)

この地域は山名氏の由来たる多胡郡山名郷に比定されており、この城も山範が築いて山名氏の
代々の居城であったとする伝承(源義家の孫、新田義重の子義範はこの山名城に拠って山名氏
と称し、以後八代、山名城を護ったという。)もあるが、確証が無く詳細不明である。
(Wikipedia より)

横堀

本丸と思われます。 二の丸と思われます。



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