北条氏の滅亡の因は、北条氏政が豊臣秀吉からの上洛の要請を
拒否したことにあると思っていました。
群馬にある名胡桃城でのトラブルが、引金になったとは初めて知りました。
現在残っている遺構の多くが真田昌幸によるものだとも、現地訪問で初めて知りました。
よく手入れが行き届いている見事な遺構に、しばし戦国時代に戻ったような気がしました。
(14/11/09
訪問)
近くを通ったので立ち寄って見ると、大掛かりな発掘調査がなされていました。
雨が降っていたし、時間がなかったけれど、大急ぎで写真を撮りました。
その写真を前回のものに混ぜてアップロードします。 (18/05/13 訪問) |
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名胡桃城の歴史 |
鎌倉時代〜戦国時代 |
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沼田氏が支配 |
戦国時代 |
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天文 |
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小田原北条氏が赤城山を越えて侵攻、沼田氏を追放 |
1560 |
永禄 |
3年 |
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上杉謙信が三国峠を越えて侵攻
北条氏の城となっていた沼田城を手中に |
1573 |
天正 |
1年 |
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武田信玄死亡 |
1578 |
6年 |
3月 |
16日 |
上杉謙信が急死。沼田は北条氏のものに |
1579 |
7年 |
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武田勝頼の命により、真田昌幸が岩櫃城、名胡桃城を攻略 |
1580 |
8年 |
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真田昌幸が沼田城を調略 |
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豊臣秀吉、北条氏と真田氏の間を調停し、
北条氏に上洛を促す |
1589 |
17年 |
7月 |
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秀吉が北条氏と真田氏間の裁定を決定
北条氏が秀吉の裁定を破って名胡桃城を攻撃 |
11月 |
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秀吉が北条氏に対して怒りの宣戦布告 |
1590 |
18年 |
7月 |
5日 |
北条氏政、氏輝が切腹し、北条氏滅亡
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真田氏に沼田領を安堵されると名胡桃城は廃城となる |
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二の丸と二の丸堀(画面奥は、般若郭)
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郭全体を土塁で囲い、平行に溝を掘った道路が |
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中央を縦走し、その両側には門礎石と櫓建物跡が、 |
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郭内には複雑な構造を持った掘立柱建物跡群や |
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柵塀跡などが確認されました。 |
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隣接する郭の堀切りは当初の土橋を木橋に架け |
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替え、門を隔てた外側から通路をカギ形に折るとい |
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った防御態勢の特徴がみられます。 |
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二の丸堀
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二の郭
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本丸堀の向うに本丸
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向こうに本丸 |
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徳富蘇峰による碑
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本郭脇の崖
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土囲(土塁) |
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本郭堀
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ささ郭
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ささ郭の先にある袖郭
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草に覆われて近づけない物見郭
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郭の周囲は、柵で囲まれていたと考えられる溝状 |
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遺構が廻り、その中を道路、主家・副家がセットに |
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なった堀立柱建物群が4ブロック確認されています。 |
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また、ここにはあまり防御○○がみられず他の郭と |
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様相が異なることから、戦闘を意識するというより |
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むしろ日常生活空間として捉えることができます。 |
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今は駐車場に使われている般若郭
かつては、沼田氏の居館があったところ
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手前:般若郭 奥:二の郭 |
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