見て歩く日本の城と史跡ー群馬県館林市(1)

徳川四天王の一人榊原康政が初代藩主となtった館林城(城町甲23−1)

館林城というと、すぐ思い浮かぶのが徳川四天王の一人榊原康政です。
猛将だった康政は、徳川家康の関東移報に伴い、館林10万石の領主になりましたが、
関ヶ原の戦いの後は館林に引っこんで、もう表舞台に立つことはなかったと聞いたことがあります。

館林城は、非常に規模の大きな城だったことが分かりますが、遺跡といったものはほとんど残っておりません。
唯一本丸などに残る土塁に往時を偲ぶことができますが、これは江戸時代中期になってからのもの。
康政が現代に残したものと言えば、今はつつじヶ丘公園と呼ばれる場所に植えられた見事なつつじです。
今日はつつじが満開なので、お城の見学をしたあと、つつじを楽しみに行こうと思います。

あと、館林と言えば『館林宰相』と呼ばれた徳川綱吉ですが、彼が築いた城の遺構も残っていないようです。
                                           (19/04/25 訪問)

館林市指定史跡                 館 林 城 跡            
  1、8年4月1日館林指定史跡 1、所在 館林市城町甲23−1他 1、時代 戦国時代〜江戸時代
館林市教育委員会            
(現地案内板より 以下も同じです。)



千貫門跡
 千貫門は、館林城の牙城部 三の丸の北面中央部に位置し、城の正面部である大手
門と同様 城内にある重要な門の一つであった。その形態は渡櫓門で三の丸北面部の
土橋門(通用口)に対して、武士の正門とされていた。
 千貫門の内側には、城内を敵に見透かされぬように築かれた鉤の手状の蔀土居が絵
図等により確認されている。
 またその名は、三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来すると言われるが、当時の面影
は失われ、現在は隣接する土橋門周辺の土塁等にその姿をとどめるにすぎない。
 碑面のレリーフは館林を代表する芸術家藤牧義夫(1911〜1935?)の作品「三岳
画集」に所収されているものであり、尾曳稲荷神社に奉納されている城絵馬を参考に描
かれたといわれる。
 此処に碑を建設し世に伝えるとともに、文化の発展に寄与するものである。
 昭和59年3月31日                           館林市教育委員会

千貫門跡の石碑

復元された土橋門(正面)

かつての土塁が残っています。

土橋門(背面)

土橋門の内側にある井戸(説明はありません。)
土塁の上にふくげんされた塀

かつての三の丸

現文化会館近くの石碑
三の丸を守った土塁



館林市指定遺跡                 本丸土塁及び八幡宮
                              指定年月日 昭和62年(1987)8月7日
                                          所    在 館林市城町1番地の3他
                                          時    代 江戸時代
      館林城本丸土塁
 館林城は、館林・巴楽地方の代表的地形である低台地と低湿地を巧みに利用して造られた平城で別名を尾曳城といいます。
 城の中心は現在の文化会館の敷地の三の丸から東に、現市役所の敷地の二の丸・その東に本丸・南に南郭・本丸の東に
八幡宮と並び、城沼に突出した○○大地を土塁と塀とで区画して造られていました。
 ここは本丸にあたり、この土塁は本丸南側土塁の一部です。
 徳川綱吉が城主であった時代の絵図には、ここの二重の櫓(天守)が描かれており、25万石の城主にふさわしい荘厳な城で
あったことが見てとれます。その後綱吉の子・徳松の夭折により館林城は一時廃城となりますが次の城主・越智(松平)家の
時代の「館林城地目録」によれば、延享年間(江戸時代中期)の本丸は、東西約75間(約136m)、南北約25間(約45m)の長
方形の郭で周囲を長さ約224間(約407m)、高さ約2間(約3,6m)の土塁が囲んでおり、その上には瓦を載せた塀が走り、北
東隅には天守閣にあたる三重の櫓があったと伝えられています。
 館林城に関わる遺構として、たいへん貴重なものです。

本丸土塁

本丸土塁の北東隅上部
本丸土塁の上を八幡宮に向かって歩きました。

とても広い本丸 本丸土塁の先端(ここに三層櫓があったのか?)

江戸時代の井戸でしょうか?
看板は『案内板』ではありません。


この石垣は。江戸時代のものかどうか、不明です。




間知石か? 角石か?



日本の城と史跡・目次][年表