見て歩く日本の城と史跡ー群馬県富岡市

明治時代に殖産興業として造られた富岡製糸工場(富岡34−3)

世界遺産にも選ばれた富岡製糸工場は、なかなか見応えのある工場だったのですが、
昭和の時代にも稼働していたものでもあるので、このホームページにアップしようか
どうかと迷っている間に時間が経ってしまいました。

明治時代の混乱期に造られた工場は、外観も美しく工場見学が楽しめました。
操糸所内部の見学の時の、「工女を募集しても『フランス人指導者がワインを飲んでいる
姿を見た人が、血を飲んでいると勘違い』して、工女になる人がなく、ピンチに陥った」
という話が記憶に残りました。
結局、この工場設立に大きく尽力した尾高淳忠の娘『ゆう』が、工女第一号となり、
その後たくさんの工女が集まったとのことでした。
明治初期には、そういうこともあったろうと思いながら、敷地内を見学しました。

この頁では、現地案内板の内容と展示してあった画像を使わせていただいています。
                          (21/ 3/18 訪問)


 尾高淳忠
明治維新後、大蔵省官僚となった従弟の渋沢栄一の縁で、官営富岡製糸場
経営に尽力した。長女の勇(ゆう)は志願して、その最初の工女になった。また、
秋蚕の飼育法の研究や普及にも尽力した。明治9年(1876年)末に製糸場を
れ、翌明治10年(1877年)から第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人
などを務めた。その他、製藍法の改良・普及にも尽力し、『蚕桑長策』(1889年)
『藍作指要』(1890年)を著している

文面、写真ともにWikipediaより


・・・
新しい生糸つくりを志す製糸家が次々と登場しました。そして数多くの先人たちの知恵や
努力、創意工夫の力が結集されていきました。
明治8年、中山社の武居代次郎らによって生み出された諏訪式繰糸機は、その優れた実用性
から、多くの人々に採用され、瞬く間に全国各地に普及していきました。また、わずか10人か
ら始まった片倉製糸をはじめとする多くの製糸家たちは、世界市場の要望に応える経営を
展開し、明治30年代以降、全国各地に工場を構える大企業に成長を遂げました。
明治42年、日本はついに世界一の生糸輸出国となりますが、岡谷の製糸家たちによって生産
された生糸は、再精子は全国の約1/3を占めました。

操糸所入口

西置繭所
操糸所内部









フランス人指導者ブリュナの住宅



以下4枚は、どこの写真なのか不明です。
















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