見て歩く日本の城と史跡ー北海道檜山郡(3−2)

和人が最も早い時期に定住した地にある勝山館(上ノ国町勝山)

北海道と言えば、箱館戦争関連に興味が向いていて、実は中世の歴史に
いま一つ興味がありませんでした。でも、続日本100名城に入っていると知り
少し下調べをして、勝山館に行ってみました。

行って見ると、発掘調査がしっかり行われ、手入れも行き届いた見事な史跡がありました。
『北海道と言えば、五稜郭と松前城』という認識が改まりました。
館内の中央通りを、海を見ながらゆっくり下るのは、暑さを忘れて快適でした。

勝山館は、後の松前氏の祖である武田信廣が15世紀後半に築いた山城です。
ガイダンス施設の展示物に、甲斐武田氏の一門『武川衆』と同じ『丸に割菱』の家紋が
たくさんあったので、ガイドの方に尋ねると、『武田信広』が、甲斐武田氏とルーツを
同じくするかどうかについては、諸説あるとのことでした。   (21/ 7/23 訪問)
注:この頁では、いただいた観光用パンフレットと現地案内板の画像も使わせていただきました。



Bコースを選び、海を見ながら楽しみました。


脚を痛めていたので、見所の幾つかをパスしました。





日本大百科全書(ニッポニカ)によるコシャマインの戦い」の解説
室町中期に北海道渡島(おしま)半島を舞台にして起きたアイヌ民族の蜂起。1456年(康正2)春、箱館近郊志里(しのり)「函館市
志海苔(しのり)町」の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことが発端となり、翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマイン
に率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。この蜂起によって、当時渡島半島南端に館(たて)を築いて群雄割拠していた和
人小豪族の諸館が相次いで陥落、わずかに茂別(もべつ)「北斗(ほくと)市茂辺地(もへじ)」と花沢(上ノ国町)の2館を残すのみと
なったが、花沢館主蠣崎季繁(かきざきすえしげ)のもとにあった武田信広(のぶひろ)(松前氏の祖)が和人軍を指揮して反撃を加
え、ついにコシャマイン父子を射殺、これによりアイヌ軍の勢力は急速に弱まり、鎮圧されるに至った。

日本大百科全書(ニッポニカ)による「武田信広」の解説
室町時代の武将。蝦夷松前藩(北海道松前町)藩主松前氏の始祖と伝える。「松前氏系図」などでは,若狭(福井県)守護武田信賢
の子で,明応3年5月20日(1494年6月23日)64歳で没したとするが確証を欠く。松前藩の記録によると,宝徳3(1451)年若狭を出国し
て陸奥田名部(むつ市)に至り,享徳3(1454)年には安東政季らと共に蝦夷地に渡って,上ノ国花沢館(松前町)館主蠣崎季繁のもと
に寄寓。その後,長禄1(1457)年にアイヌの一斉蜂起(コシャマインの反乱)を鎮圧して季繁の娘婿に迎えられ,蠣崎家を継いだとい
う。文安4(1447)年に「奥州十三湊日之本将軍安倍(安東)康季」が若狭羽賀寺(小浜市)を再建していること(「羽賀寺縁起」),寛正4
(1463)年には小浜港に十三丸という大型船が入港していること(『政所内談記録』)などに若狭と十三湊(青森県十三湖),および同
地を拠点として奥羽北部・北海道南部を支配した安東氏との密接な関係がみられ,信広が若狭出身であった可能性は十分考えら
れる。                       <参考文献>『松前町史/通説編』1巻上   (河村昭一)

ここから出発しました。
『史跡上之国館跡のうち勝山館跡』








館神八幡宮跡 麓にある上ノ国八幡宮本殿






城代の住居あと

二つの郭を隔てる空掘まで来て、振り返りました。

空堀に架かる橋に向かいます。


空堀を渡ったところにある小さい方の郭から振り返りました。

ここからは、急な傾斜を駐車場まで、ひたすら下りました。

振り返って

自動車道に出ました。
ここが、勝山ト゜城道の始点(終点)です。

ガイダンス施設(下山道の始点まで車で行けます。



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