日本大百科全書(ニッポニカ)による「武田信広」の解説 |
室町時代の武将。蝦夷松前藩(北海道松前町)藩主松前氏の始祖と伝える。「松前氏系図」などでは,若狭(福井県)守護武田信賢 |
の子で,明応3年5月20日(1494年6月23日)64歳で没したとするが確証を欠く。松前藩の記録によると,宝徳3(1451)年若狭を出国し |
て陸奥田名部(むつ市)に至り,享徳3(1454)年には安東政季らと共に蝦夷地に渡って,上ノ国花沢館(松前町)館主蠣崎季繁のもと |
に寄寓。その後,長禄1(1457)年にアイヌの一斉蜂起(コシャマインの反乱)を鎮圧して季繁の娘婿に迎えられ,蠣崎家を継いだとい |
う。文安4(1447)年に「奥州十三湊日之本将軍安倍(安東)康季」が若狭羽賀寺(小浜市)を再建していること(「羽賀寺縁起」),寛正4 |
(1463)年には小浜港に十三丸という大型船が入港していること(『政所内談記録』)などに若狭と十三湊(青森県十三湖),および同 |
地を拠点として奥羽北部・北海道南部を支配した安東氏との密接な関係がみられ,信広が若狭出身であった可能性は十分考えら |
れる。 <参考文献>『松前町史/通説編』1巻上 (河村昭一) |