見て歩く日本の城と史跡ー北海道松前郡(3)

近世に築かれた北海道唯一の城郭・松前城(松前町字松城144)

テレビ等で松前城を見るたび、天守のあるお城が
北海道にもあったんだ、と認識はしていました。
でも、今回、実際に行ってみて、本州等にある、
所謂江戸時代の城郭タイプの城として築かれたのは、
幕末のことであったと知って驚き、そして納得しました。

どのお城に行っても、維持管理の難しさについて思います。
天災や不慮の事故で貴重な史跡が失われることもあるでしょう。
松前城の本丸御門が残っていて、とても嬉しく思いました。
                    (21/ 7/24 訪問)

注:この頁では、観光用パンフレットや現地案内板の画像等々を
  使わせていただいています。

この頁の最後に『松前屏風(北海道指定有形文化財)』があります。


の展示より

(開陽丸記念館の展示より)

21年NHK大河ドラマ『青天を衝け』に、
渋沢喜作が「蟠が松前(?聞き取れ
ません)港に入り、松前城が落ちました。」
と報告を受けるシーンがありましたね。

上の画像と比べると、進行方向が逆に
なっています。
開陽丸記念館の展示より




重要文化財福山城(松山城)
本丸御門修理概要等       
 福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築かれた北海道唯一の城郭である。松前家5世慶広が
天正17(1589)年徳山(大舘)の居館焼失を機に、慶長5(1600)年福山の地で築城に着手し、同11(1606)年完成した。
 蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張りにより
直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)に完成をみた。
 その後数十年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8(1854)年には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀
等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し、指定を解
除された。同25年文化財保護法の施工により本丸御殿は重要文化財に指定された。
 本丸御門は昭和24年屋根葺替部分修理が行っているが、修理後35年を経て、屋根銅版画摩耗し雨漏りが生じるようになり、
また日本海中部地震により柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては、松前町の直轄工事とし
設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。


注:17世崇廣は章廣6男




北海道指定有形文化財   
旧福山城本丸表御殿玄関
 慶長11(1606)年に完成した城は当時これを福山城と称していた。
 しかし、寛永14(1637)年城中より出火し、多くの建物を焼失、同16
年これを修築した。
 この際表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
 明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天
守と本丸御門と表御殿は残った。表御殿は松代小学校として充用され
明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは、小学校正面玄関と
して、昭和57年まで利用されてきた。
昭和38年7月26日指定   


当時のままの本丸御門





復元された搦手二ノ門

復元された搦手二ノ門の背面

遠くに搦手二ノ門が見えます。

復元された天神坂門




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