波多野城址の歴史 |
新編相模国風土記稿によると、寺山村には平安時代〇〇/〇〇時代にかけて活躍した波多野氏の城址があったという。 |
波多野氏の先祖は、藤原秀郷の子孫で佐伯軽範といい、母方の姓を称し、源氏の家臣であった「波多野」を開発し所領 |
としたことから姓としたものであろう。平安時代の末に起った奥州の安倍氏の乱では源頼義、義家親子に従い、黄海(岩手 |
県)の戦いで討死した。彼の子孫の義通は保元・平治の両乱では源義朝に従い大活躍した。 |
源頼朝が挙兵した治承四(1180)年、当時の波多野氏の当主は義常であったが、参戦を拒んで松田の館で自害した。 |
その後、叔父の義景が継ぎ、さらに建保元(1213)年の和田義盛の乱で義景の子盛通が和田方の就き、滅んだため義常 |
の弟忠綱に実権が移ったと考えられる。 |
鎌倉幕府の記録である「吾妻鑑」によると、「波多野本庄北方」は義通の父遠義から建保三(1137)年正月に義通へ、そ |
して嘉応元(1169)年六月義景に伝えられたという。波多野本庄北方の正確な位置と範囲は不明だが、寺山に伝わる波 |
多野城址はこの義景の居館址と考えられている。 |
忠綱は後に将軍実朝の菩提のため東田原に金剛寺を開創している。 |
昭和62年3月から平成2年3月までの間7次に渡る発掘調査の結果、残念ながら波多野氏の館の跡は発見できなかっ |
たが、空堀と信じられてきた場所から馬歯が大量に発掘され古代に度々雨ごいが行われたところであることが判明した。 |
秦野市 |