見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県秦野市

源実朝公首塚(東田原1019−2)

 鎌倉で甥に暗殺された源実朝公の首塚が、秦野市にあるというので、行ってみました。
現地案内板によると、三浦義村の家臣が実朝公の首を、この地に持ち込んだという・・・。
どういう経緯でそうなったのかは書いてないのですが、三浦義村がどういう考えであっ
たかには、大いに関心のあるところです。
 首塚の周囲が、実朝公の『金槐和歌集』にある植物を歌った和歌の中の植物を植えて
植物園にしてあるのは、とても素敵です。こんなことなら、春に来れば良かったと、残念に
思いました。
                             (24/12/20 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



源実朝公首塚

読めない石碑 供養塔

佐々木信綱揮毫による源実朝の和歌

手水鉢



源実朝公の念持仏が伝承される金剛寺(東田原1116)

実朝公首塚から程近くにある金剛寺に安置されている『木造阿弥陀三尊立像』は、
実朝公没後に供養のため作られたものなのですね。また金剛寺の境内に、『田原学校跡』
の石碑があることから、金剛寺は、元々この地にあったものでなく、再興されたもののよう
なのですが、いまいち歴史等が分かりません。
      (24/12/20 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


源氏の家紋『笹竜胆』 元は学校だったのですね。




相模の武将・波多野氏の居城跡(寺山526−8)

 首塚近くの案内板には、『伝・波多野城址』とあったので、本当に波多野氏の城があった
のかどうかは分かりませんが、行ってみました。立派な石碑や深い堀跡のようなものが
あって、いくつか城址を見てきた経験から、きっとここが波多野氏の城があった場所だろう
と思いました。案内板はとても読み難かったので、帰宅してからゆっくり読みました。結果
波多野氏の歴史が少し分かりました。
 可愛い鹿さんが近寄ってきて、楽しめました。
         (24/12/20 訪問)


波多野城址の歴史
 新編相模国風土記稿によると、寺山村には平安時代〇〇/〇〇時代にかけて活躍した波多野氏の城址があったという。
 波多野氏の先祖は、藤原秀郷の子孫で佐伯軽範といい、母方の姓を称し、源氏の家臣であった「波多野」を開発し所領
としたことから姓としたものであろう。平安時代の末に起った奥州の安倍氏の乱では源頼義、義家親子に従い、黄海(岩手
県)の戦いで討死した。彼の子孫の義通は保元・平治の両乱では源義朝に従い大活躍した。
 源頼朝が挙兵した治承四(1180)年、当時の波多野氏の当主は義常であったが、参戦を拒んで松田の館で自害した。
その後、叔父の義景が継ぎ、さらに建保元(1213)年の和田義盛の乱で義景の子盛通が和田方の就き、滅んだため義常
弟忠綱に実権が移ったと考えられる。
 鎌倉幕府の記録である「吾妻鑑」によると、「波多野本庄北方」は義通の父遠義から建保三(1137)年正月に義通へ、そ
して嘉応元(1169)年六月義景に伝えられたという。波多野本庄北方の正確な位置と範囲は不明だが、寺山に伝わる波
多野城址はこの義景の居館址と考えられている。
 忠綱は後に将軍実朝の菩提のため東田原に金剛寺を開創している。
 昭和62年3月から平成2年3月までの間7次に渡る発掘調査の結果、残念ながら波多野氏の館の跡は発見できなかっ
たが、空堀と信じられてきた場所から馬歯が大量に発掘され古代に度々雨ごいが行われたところであることが判明した。
                                      秦野市
(現地案内板より)

堀(?)の向こうに見る波多野城址遠景

波多野城址は階段の上





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