見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県相模原市緑区(1ー2)

三増合戦のとき、赤備え山県隊が駆け抜けた志田峠(津久井町長竹)

1569年、小田原城を取り囲んだ信玄は、たった三日で退却しました。
現愛川町三増で、北条勢の追撃を受けた武田軍は万全の備えで迎え撃ちます。
志田峠を超えた韮尾根で待機していた赤備え山県隊は、機を見て一気に戦場に雪崩れ込み武田軍の勝利に大きく貢献しました。
志田峠は、津久井町と愛川町の境界の近く 津久井町にあります。
津久井町側はそれ程難所ではないのですが、愛川町側はかなりの難所で、オフロード車でやっと通過できる状態です。


車で無理無理峠越えをしたのですが、山県昌景も通った道かと少し感無量になりました。   (07/ 5/26 訪問)

志 田 峠
 志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に
沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越え
の○があった。
 ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山形三郎兵衛
の率いる遊軍が、この道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にて
勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。
 江戸中期以降は、厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越えをしの
ぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりは、この山が芝山であったことによる
いう。                    愛川町教育委員会
(現地案内板より)

現在の韮尾根の風景

志田峠の看板がひっそりと! 峠から見下ろす愛川側の道

三増合戦の勝利を祝して首実見した首洗池(相模湖町寸沢嵐)

1569年、小田原城を取り囲んだ信玄は、たった三日で退却し、
三増で北条勢の追撃を打ち負かし(10月8日)、二手に分かれて帰途に着きました。
二手に分かれた軍が合流したのは、反畑、現在の相模湖町寸沢嵐です。
このとき、討ち取った首実検をしたのですが、その数3269と言われています。
その首を洗ったといわれる池が首洗池として今も残っています。(現在水はありませんがーー。)
場所は、神奈川中央交通バス停寸沢嵐のすぐそば。
首実検した後、その首をすぐ近くの高台に葬ったのですが、そこに浅間神社が作られました。
現在、浅間神社は建物はなく、神社の石碑と首塚の案内板が残るのみです。(07/ 6/ 8)訪問

(現地案内板より 以下も同じです。)

現在は水がないけれど、池だった面影を残す首洗池
左:バス停に背を向けて   右:バス停に向かって

現在は建物のない浅間神社

首塚の案内板

 
三増合戦で北条勢に勝利をおさめた武田信玄は
甲州へ帰還する途中、このあたりで軍の建て直
しと首実験をを行いました。実験の後、武田勢は
3269体をここに葬ったと言われています。



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