見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県相模原市中央区(1ー2)

新田開発のため境川から水を運んだ『水くみ街道』(上矢部4丁目付近)
 
 水くみ街道について、行った記憶が微かにあったもののすっかり忘れていたので、
市役所に質問させていただいたところ、ご回答をいただきました。
 矢部4丁目にあるという地名標柱を探しに行きました。矢部4丁目をくまなく探した
わけではありませんが、見つかりませんでした。そこで薬師堂に行ったのですが、そ
こで、「水くみ街道」の文字を見つけることが出来ました。 (26/ 2/24 訪問)

相模原市役所に質問をさせて頂いたところ、市立博物館からご回答頂きました。
「水汲み街道」とは、どこが始点で、どこ終点でしょうか?
 当館では「水汲み街道」の正確なルートは把握しておりませんが、『地名調査報告書』(昭和59年3月、相模原市教育委員会発
行)13−14頁に「水が乏しかったことから境川へ向かういくつかの道はミズクミカイドウと呼ばれている。」とあることから、複
数の道の呼称であったと推測されます。また、『さがみはらの地名ー村をつないだ道・坂・川ー』(平成2年3月、相模原市教育委員会
発行)19・28頁に「水汲み街道が「江戸道」や上矢部街道」の別称であったと書かれており、中央区矢部4丁目に「上矢部街道」
の地名標柱が設置されていることから、この道と境川を結ぶ道を指したものと思われます。
 「上矢部街道」の地名標識は近年になって移設があった等の事情がなければ、薬師堂(中央区上矢部4−6−14)内にあると
思われます。

現地に行ってみて、青い点々が水くみ街道ではないかと勝手に思っています。

上矢部4丁目の薬師堂

薬師堂の道沿いにある石碑(1本ですよー。)

上矢部街道
上矢部村を通る道なのでこのように呼ばれていました
また、矢部新田を開拓した人々が境川の水を汲みに通っ
た「水くみ街道」であるとも呼ばれています
平成元年3月 相模原市

薬師堂を背にして右側 薬師堂を背にして左側
薬師堂の前の道が『水くみ街道』だと思われます。

 上矢部新田開発は、どの範囲だったのか?(矢部、富士見、上矢部、渕野辺)

 相模原市矢部地域で開発された上矢部新田は、どれくらいの範囲だったのか知りた
いと思い相模原市役所にお尋ねしたところ、市立博物館から『相模原市史第二巻』に
詳しく出ていると、ご紹介いただきました。それで、市立図書館から『市史 第二巻』を
お借りしてきて調べてみました。

 『市史』にあった『矢部新田現在図』とグーグルマップを照らし合わせてみると、ほぼ
『矢部新田』の場所が分り、大満足しました。以下、『市史』の内容を参考にさせていた
だいて、この頁を作りました。          (26/ 3/ 1 記)

『矢部新田』と『上矢部新田』は、どう違うのか?という、かねてからの疑問に『市史』
が答えてくれました。
上矢部新田村は、近世4末期から単に『矢部新田』と呼ばれてきた。

相模原市役所に質問をさせて頂いたところ、市立博物館からご回答頂きました。
『上矢部新田』の範囲をお示し下さい。
 上矢部新田については、『相模原市史 第二巻(昭和42年3月、相模原市発行)139〜198頁に詳細が記載されており、
158頁に現在図が図示されております。詳しくはそちらをご覧いただきたいと思います。

『上矢部新田』では、どのような作物が作られていたのでしょうか?
 『相模原市史 第二巻194〜195頁に明治6年の生産物が記載されています。火山灰土の痩地で作物のできがあまりよく
なかったため、水田は全くなく、麦・小麦・蕎麦・陸稲・甘藷・稗・粟などを生産していたようです。また、芝野に桑を植え、養
蚕がさかんに行われたとあります。



撮影日時が書いてありませんが、『市史』が出版されたのが、昭和42年3月6日
なので、その頃撮られたものだと思われます。

向こうに見える池は、鹿沼公園にある池でしょうか?

どちらも今(令和8年)と変わりません。道路は舗装されていますが・・・・。




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