見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県相模原市中央区(1)

横山党矢部氏の居館跡(上矢部5−1−22)

小野妹子、小野篁、小野道風等を輩出した小野一族が、八王子の横山に移り住んで横山氏を名乗ったのが、
横山党の始まりです。横山党は、南下して相模原のあちこちに居を構えました。
上矢部に移り住んだ兄弟の一人が、野辺氏(矢部氏)を名乗り、矢部氏の支流が淵辺氏なんだそうです。
矢部氏の館跡には、土塁と空掘が残っているということですが、草木が生茂り、余り良くは分かりませんでした。

                            (19/ 8/26 訪問)

(現地案内板より)


空掘か? 土塁の裏側か?

横山党矢部氏(野部氏)の史跡(上矢部)

2005年頃、横山党に関心を持って、史跡巡りをしたことをすっかり忘れていました。
その当時のファイルが出てきて、我ながら興味深く見返しました。
矢部氏は元々『野辺氏』であったのが、『矢部氏』に転じ、『野辺』の淵という意味で『淵野辺』があって、
矢部氏の支流が淵野辺に住んで、それが淵辺義博なのだろうと思います。

出てきたファイルを、当時のままアップロードします。
       (19/09/06 記)

矢部氏居館土塁跡は、
横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川方向に進んで
右側、上矢部5丁目−1にあります。
左の地図では、下から上にバス道を歩きます。
(この地図は上が北北東です。)

左の地図の説明:
上の白い部分
御嶽神社
上矢部5-1の緑の線
薬師堂



町田市常盤町
矢部氏居館裏鬼門
矢部氏居館土塁跡
矢部氏居館鬼門
[相模原市配布さがみはらマップより

矢部良兼は横山党の一族で1213年5月
和田合戦に参加して、他の横山党の武士と共に
討ち死にしたそうです。

薬師堂(05/10/9撮影) 矢部氏居館鬼門跡

矢部氏居館土塁跡上矢部5丁目1

水汲み街道(05/10/9撮影) 御嶽神社(06/ 1/15撮影)上矢部2-23-1
矢部氏居館裏鬼門跡

矢部駅北口を境川に向かってあるいていくと、『薬師堂』というバス停があります。
薬師堂は、バス道より1本右側にあります。思ったより大きな建物でした。ここは、矢部義兼の館の鬼門にあたる場所だそうです。


この薬師堂の前の道は、矢部新田を開拓した人たちが水を汲みに行った、『水汲み街道』と呼ばれていました。
現在は『上矢部街道』とも呼ばれています。
この水汲み街道を境川の方向へ下り、左に回る感じで進むと
かつて矢部氏居館裏鬼門にあたる右手に御嶽神社があります。御嶽神社の裏は、もう境川です。

上矢部の板碑
 この板碑は乾元(けんげん)12年(1303年)に建てられたものです。板碑とは主に中世に作られたもので、
死者の供養のためにつくる石の卒塔婆(そとば)のことです。表面には梵字(ぼんじ)や仏像が刻まれ、銘文が
記してあるのが普通です。この板碑には、阿弥陀如来(あみだにょらい)の像と蓮花の花瓶が刻まれ、「乾元
二年八月日」と記してあります。
 この板碑の由来については、鎌倉時代にこの地に館をかまえていた矢部義兼(やべよしかね)の供養碑で
あるといわれています。義兼は横山党の一員ですが、建暦3年(1213年)の「和田合戦」に参加して戦死して
います。これはその追善供養のために、後年遺族などによって建てられたものといわれています。
相模原市 相模原観光協会
(現地案内板より)

板碑の鞘堂(05/10/9撮影)
実物はかなり小さいお堂です。
板碑(05/10/9撮影)

相模原市重要文化財である『板碑』は、矢部駅北口から境川に向かう道の左側、道から少し離れたところにあります。
矢部義兼は、横山一族だった藍原孝遠の三男で野部三郎と言いました。
横山党は、建保元年(1213)5月2日に起こった和田合戦(和田義盛軍の鎌倉幕府と北条義時邸への襲撃)に和田軍支援の
ため駆けつけました。翌3日の早朝に由比ヶ浜で和田軍に合流し、幕府軍と戦いましたが、横山党一族殆どが討死しました。

矢部義兼が和田合戦で亡くなったことを悼み、没後90年たった乾元2年(1303)に遺族等によって建てられたのが、
この板碑だといわれています。

板碑は、今は鞘堂の中。鍵がかっています。阿弥陀如来像が、かすかに見えますね。

横山党田名氏の館跡(田名4789付近)

田名氏は、横山時広の次男が田名二郎兵衛を名乗り、この地に住みついたことから始まりました。
田名小学校と田名公民館の間の道を相模川方向に少し下った左手に『でえの坂』、
右手に『大杉公園』(水場)があり、この辺りが田名氏居館跡だと言われています。
水郷田名と呼ばれる水に恵まれた田名ですが、田名氏の居館跡は相模川から河岸段丘を上がったところにあります。
田名氏の家の子郎党は、相模川の近く、河岸段丘の下で生活していたのかと思います。

相模川の対岸は愛甲郡愛川町で、田名の名前は残っていません。

横山党は、建保元年(1213)5月2日に起こった和田合戦(和田義盛軍の鎌倉幕府と北条義時邸への襲撃)に
和田軍支援のため駆けつけました。翌3日の早朝に由比ヶ浜で和田軍に合流し、幕府軍と戦いましたが、
横山党一族殆どが討死し、田名広季とその子時季も討死しました。
   06/ 2/11 頃訪問か?)

居館への参道跡との伝承があります。
坂の脇にある家の屋号が台(でえ)なので
この名前があるという。

でえの坂を上ったところ
ゴミが積んでありました。
でえの坂すぐ近く、大杉公園
田名氏居館の水場だったともいう。



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