淵辺義博の史跡MAP | 
            
            
               
              
              
              
               
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              R大塔宮護良親王を弑した淵辺義博の居館跡(淵野辺本町3−26−8) | 
          
            
               
              
                
                  
                    淵辺氏は、横山党の矢部氏の一族だと読んだことがあります。相模横山党が、鎌倉時代創世記の 
                    和田合戦でに参戦し敗れ衰退した後、淵辺義博義博が登場するのは、鎌倉時代終焉のころです。 
                    その間のことは、少し調べてみましたが、分かりませんでした。 | 
                   
                  
                    淵辺義博は、『太平記』に登場します。 
                    後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王は、足利尊氏の弟・直義によって鎌倉に幽閉されていました。 
                    鎌倉幕府最後の執権・北条高時の嫡男・北条時行が鎌倉を攻めたとき、足利直義は護良親王が 
                    北条軍に奪われるのを恐れて、護良親王を殺害することにし、,刺客として淵辺義博を向かわせました。 
                    淵辺義博は、護良親王を殺害した人として、後世に名を残しましたが、 
                    地元には、淵辺義博は護良親王を密かに宮城県石巻市に逃がしたという伝承があります。 
                    淵辺義博居館跡は、今は石碑があるのみです。               (19/ 8/26 訪問) | 
                   
                
               
               
              
                
                  
                    
                    
                      
                        
                          | 淵辺義博は南北朝時代に淵野辺村の地頭であった。義博は足利直義譜代の臣で史書に | 
                         
                        
                          | よると、建武2年主命によって大塔宮護良親王を弑し、後駿河国手越河原で主の身代わり | 
                         
                        
                          | となって討死した。伝承によれば親王を奥州石巻へ逃し奉り、あるいは暦応年間村人のた | 
                         
                        
                          | めに境川の大蛇を退治したともいう。この地域における注目するべき人物である。 | 
                         
                        
                          | 然るに時代の推移に伴い、義博の史実伝説も忘却されんとしつつある。因ってその居館跡 | 
                         
                        
                          | に一碑を建て、長く遺跡を留めんとするものである。 | 
                         
                        
                          |     昭和49年3月吉日          相模原市埋蔵保護委員 座間美都治撰 | 
                         
                      
                     
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                    この石碑を右に見て登った左側に淵辺義博居館跡があります。 
                     
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                L淵辺義博が大蛇退治にあたり祈願した日枝神社(淵野辺本町1ー36−16) | 
            
            
               
              
                
                  
                    日枝神社は、淵辺義博の大蛇退治伝説で有名ですが、北条氏康が祈願所にしたことでも知られています。 
                    ということは、戦国時代淵野辺村は北条氏の支配下にあったということですね。 
                    というか、考えるまでもないことですね。        (05/ 2/25頃 訪問か?) | 
                   
                
               
               
              
              
               
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                (25)(26)淵野辺義博伝説・縁切り榎とわかれ橋(東淵野辺(2−29) | 
            
            
               
              
                
                  
                    淵野辺義博が護良親王を落ちのびさせた伝説の地です。現在は、中里橋の西側に 
                    『新中里橋』ができて、そちらは車の往来が激しく、『中里橋』を渡る車はほとんどありません。 
                    宮城県石巻市には、護良親王にまつわる史跡があるそうで、いつか行ってみたいものです。 
                                                           (19/ 8/26 訪問) | 
                   
                
               
               
              
               
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                (28)(29)淵野辺義博伝説・龍蔵寺(東淵野辺3−25−1) | 
            
            
               
              
                
                  
                    龍蔵寺に着いて、美しいお寺に驚きました。 
                    広い駐車場!雑草のない広い境内!美しい彫刻のある本堂! 
                    とても暑かったのですが、しばし見とれてしまいました。 
                    大蛇を退治した伝説もあって、淵辺義博は豪傑だったのだ!と改めて思いました。 
                    『淵辺義博が大蛇を射たところ』の伝承があるのですから、何かそれに似たことがあったのでしょう。 
                                                             (19/ 8/26 訪問) | 
                   
                
               
               
              
                
                  
                    
                    
                      
                        
                          | 義博の時代、境川に龍池という池があり、そこに大きな龍が住み着き、村を荒らし回っていた。そこで、 | 
                         
                        
                          | 義博は部下を引き連れて龍退治に向かい、見事龍の目を弓矢で射抜いて退治した、という伝説である。 | 
                         
                        
                          | その時、龍の体は3つに分かれて飛び散った。そこで、龍の怨霊を沈めるため、龍の頭が落ちた場所に | 
                         
                        
                          | 「龍頭寺」、胴体の落ちた場所に「龍胴寺」、尾の落ちた場所に「龍尾寺」が建立されたと伝えられている。 | 
                         
                        
                          | 現在は、龍胴寺こと龍像寺が残っているだけであるが、寺にはこの伝説が伝えられ、また境川沿いの | 
                         
                        
                          | 旧鎌倉街道(八王子道、現在は民家の中)に、「龍を射た場所」というのが伝えられている。 | 
                         
                      
                     
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                          | 相模原市指定史跡 | 
                         
                        
                          | 龍蔵寺の岡野氏墓地 | 
                         
                        
                          |  江戸時代の淵野辺村領主岡野氏一族の墓地です。 | 
                         
                        
                          |  初代板部岡融成(号江雪)は、はじめ小田原北条氏に仕えましたが、北条氏滅亡後は、 | 
                         
                        
                          | 岡野と姓を改め、豊臣・徳川両氏に仕えました。 | 
                         
                        
                          |  その後、次男房次の子英明が、淵野辺村の地頭となり、寛文3(1663)年、淵野辺村は | 
                         
                        
                          | 本家貞明・分家友明に分知され、幕末まで続きました。 | 
                         
                        
                          |    指定年月日平成14年4月1日 | 
                         
                        
                          | 相模原市教育委員会   | 
                         
                      
                     
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                F横山党矢部氏の居館跡(上矢部5−1−22) | 
            
            
               
              
                
                  
                    小野妹子、小野篁、小野道風等を輩出した小野一族が、八王子の横山に移り住んで横山氏を名乗ったのが、 
                    横山党の始まりです。横山党は、南下して相模原のあちこちに居を構えました。 
                    上矢部に移り住んだ兄弟の一人が、野辺氏(矢部氏)を名乗り、矢部氏の支流が淵辺氏なんだそうです。 
                    矢部氏の館跡には、土塁と空掘が残っているということですが、草木が生茂り、余り良くは分かりませんでした。 
                                                       (19/ 8/26 訪問) | 
                   
                
               
               
              
               
              
               
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