見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県厚木市(2)

毛利元就のルーツ・毛利季光の館跡だと云われる三島神社(下古沢659)

厚木市にある大きな住宅分譲地・毛利台の『毛利』が、毛利元就と関係があると、
いつのころか、聞いたことがありました。
調べてみようと思いつつ、なかなか実行できなかったのですが、
今回やっと出かけてみました。
史跡としては、毛利氏のルーツ・毛利季光の館跡だと云われる三島神社だけなのですが、
毛利元就と厚木市毛利の関係がはっきりして、満足でした。
もし、厚木市が大きな都市にならなければ、史跡ももっと残っただろうと、
少し残念ではあります。

宝治合戦で三浦氏に与した毛利一族は死に絶えて、相模国毛利荘を失いました。
                               (20/10/19 訪問)
大江広元
四男・毛利季光
宝治合戦で毛利一族
殆ど死に絶え、相模国
毛利荘を失う。
四男・毛利経光
宝治合戦時、経光のみ
越後にいて難を逃れる。
長男・毛利基親
越後国刈郡佐橋荘
南条領有
(1)北条毛利高広
上杉謙信に2度背き、2度帰参を
許されたが最終的には没落した。
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(2)安田毛利氏
上杉景勝に従い会津・
米沢に移り現在に至る。
四男・毛利時親
安芸国吉田荘領有
毛利元就
記述を省略する。
 毛利氏は源頼朝が開いた鎌倉幕府の功臣であった大江廣元(1148〜1225)
から出ている。大江廣元は頼朝の政治の補佐をし、特に守護頭の設置を献策し
たことで知られている。これらの功により現在の厚木市小鮎○○○○毛利地区
などを中心とした「相模国毛利庄」をはじめとした多くの所領が与えられた。
 廣元には6男5女の子供があり、4男の季光(1207〜1247)が後を継ぎ庄名
をそのまま苗字として毛利季光を名乗った。
 季光は毛利元就(1497〜1571)や毛利輝元(1553〜1625)の先祖で
あって、大江流毛利氏の始まりである。
 季光が居住した屋敷は、遺物等に残っていないものの、地域伝承や古い地区、
古い地名からこの三島神社を中心とした地域にあったと云われている。
三島神社にある石碑


毛利元就が正親町天皇より下賜された
『五三の桐』が校章となっています。

(南毛利小中学校ホームページより)

上二つ、厚木観光協会から頂いたパンフレットより

向こうに見えるのが、三島神社

毛利季光館跡だと云われる三島神社
大ケヤキの下に『毛利氏』に関する石碑があります。

三島神社の本殿


毛利台という大きな宅地分譲地があるので、行ってみました。
今は、かなり平たんになっていますが、かつては小高い丘だったようです。
ここに毛利氏の詰めの城でもあったかな?と根拠もなしに想像しました。

『森ノ庄』が『毛利の庄』になったといただいたパンフレットにあったので、
『森の里』というネーミングも、そこから来ているのか?と勝手に思いました。





通りがかりに見た案内板を写真に撮りました。
中に毛利季光の名前があったので、そこをアップロードします。





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