源頼朝と戦った大庭景親の居城大庭城(大庭字城山5230番1) |
大庭城の歴史というと、大庭景親、太田道灌、北条早雲などが登場します。
大庭景親は、平家側として源頼朝と敵対し、富士川の戦いで敗れた後、処刑されました。
後になって、北条早雲が大庭城を攻め落としたことも大きな出来事です。
思いがけず大規模な城で、散策するには申し分なかったのですが、
史跡を目当てに行った者には、少し物足りなかったです。
郭が4つあると紹介があったのですが、どこがどういう郭か分からず、残念な気分がありました。
しかし、このように広大な公園にもかかわらず、手がよく行き届いているのには驚きました。
(17/06/29 訪問) |
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大芝生広場
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道路が見えます。
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休憩広場近くの大芝生広場付近の空掘か?
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かつては空掘りで現在は埋まってしまっているのか? |
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花の広場 『土塁』と思われます。 |
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鳥の雛が歩いていました。 |
大庭城址 |
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『大庭城址』の碑
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『空掘』の案内と案内碑の奥の空掘(場所が特定できません。)
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堀立柱建物址(ほったてばしらたてものし) |
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建物があったという印の石柱
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昭和7年に造られた碑
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舟地蔵方面に下りてみます。 |
此地 大庭景親 居城と云う後上○○ 正修〇て居城せし○永正9年 |
子朝○ 時北条早雲に攻落○○是より○○條 氏の持城となった廃城 |
の年代未○○○、蹟等当代城郭の制を見る 昭和7年 神奈川県 |
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この道を下ります。
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神社がありました。 |
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『南入口』に出ました。
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『大庭城址公園』の案内 |
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舟地蔵伝説
北条早雲が大庭城を攻めたとき、苦戦した早雲は餅を売っていた老婆に城周辺の沼地を
干上がらせる方法を教えてもらいました。早雲は、敵にこの方法が漏れることを恐れて、
老婆を切り殺してしまいました。地元の人がこの老婆を憐れんで祀ったのが、この舟地蔵
だという伝承が今も残っています。 |
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北条氏、後北条氏からの尊崇の念が高かった江の島神社(江の島2丁目3番8号) |
かつて、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠したとき、二十丈もある大蛇と出会い、
姿を消した後、残った三枚の鱗を時政が 持ち帰って家の紋にした、という言い伝えがあります。
源頼朝も参詣した江の島神社の社紋は、北条家の伝説を考案し『向い波の中の三つの鱗』になりました。
後北条氏も、家紋をこの『三つ鱗』とし、篤く江の島神社を敬いました。
永正元年(1504)、北条早雲は、『江の島で武士が乱暴狼藉しないように』という制札(禁制)を掲げました。
(17/06/29 訪問)
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田寸津比賣命を祀る『辺津宮』
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『向い波の中の三つの鱗』 |
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市寸島比賣命を 祀る『中津宮』
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