見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県川崎市

北条氏康初陣の城・小沢城(多摩区菅仙谷1−5−3)

北条氏康は16歳で、上杉朝興との戦に初陣しました。
その合戦のとき、小沢城は北条氏のものとなっていたと思われますが、
どういう経緯で小沢城が北条氏のものになったか、どこにも書かれていません。
そこのところが気になりますが、小沢城を大切にしているグループがあると分かり
小沢城を楽しく散策しました。
      (07/12/15 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



 
 菅仙谷の遊歩道登り口

 
登って行くと右側に『城小屋入口』の案内

  小さな神社がありました。 
 
更に登ったところにある小沢城を管理する道具小屋

  小屋の上に郭らしきものが見えました。
この画像は、また後で出ます。

 
元の登り道に戻って、更に進みました。 

空掘の物語
ここが空掘りです。人為的にこのように掘って敵の来襲を防いだ所です。なだらかな傾斜の所
に掘られております。皆さんがここまで来る途中険しい絶壁が続きましたね。その裾を多摩川
の本流がとうとうと渦を巻きながら流れていたと伝えられておりましたので、北からは絶対に
攻められない自然の要害にも拘らず、更に(念には念を入れて)(石橋を叩いて渡れ)のたぐい
でしょうか。いかに小川城が重要な所だったかがよく分かりますね。
平成13年4月10日 小沢城址里山の会広報担当 菅の語りべ 宮崎

左右に続く空掘を渡って進むと、大きな郭らしき場所に出ました。

 
多分、ここが本郭だったのでしょう。

天神社に続く道

 
 本郭らしきスペースは、かなり広いです。

   郭スペースの端からこんな景色も見えました。

 
『きたん坂』がどこにつながるのか、不明です。

 
 本郭から戻って、振り返りました。   菅仙谷から登ってきたので浅間山方向に進みました。

物見台の物語
皆さん、ここが物見台です。全面の木を切り開くと、右手方面は東京即ち江戸、左は秩父連峰まで見渡すこ
とが出来ますね。だから関八州が見渡せるので八州公園とも呼ばれています。ここは、鎌倉時代より南北
朝・室町・戦国時代に至る約380年にわたって敵を見張っていたところです。そして思うに、6月頃より9月
頃にかけては蚊の大群に襲われ、12月頃から2月頃までは身も凍る寒風にさらされ、その辛苦が偲ばれ
ますね。そして何時か経つと、先程のお台場に待機していた武士と交代するのです。自然の地形を利用し
た素晴らしい物見台ですね。
平成13年4月10日 小沢城址里山の会広報担当 菅の語りべ 宮崎

 
 小沢峰・伝 物見台か?

   小沢峰を越えて進むと古井戸があります。
古井戸の物語
皆さん、この穴は古井戸かまたは狼煙の跡かと言われておりますが、地元の私達には古井戸であるという確証
がございます。それは、下の竹やぶに館があり生活用水が必要であること。また明治の中頃、子供が落ちたの
で危険であると言うことで、頂上にたくさんあった投石用の石で埋めたと言い伝えられているからです。私が幼
い頃(昭和8年頃)これより2メートル位深かったのですが、半生紀以上も建つとこの様に風化されてしまうもの
なのですね。
平成13年4月10日 小沢城址里山の会広報担当 菅の語りべ 宮崎

 
埋まってしまった古井戸

浅間神社の物語
皆さん、この小さな神社は浅間神社と申します。この神社は富士山の守り神です。どうして小沢城のこの峰
に祀られているのでしょうか。不思議でしょう。それは歴史をひもとくと判りました。戦前は我が国は○○でし
たね。そのため信仰心が旺盛で、多摩区や麻生区の富士講の人たちが登山するには多摩丘陵の峰つたい
にこの小沢城にきて、これより山を下って菅村を通り、多摩川を渡り調布より甲州街道を登山口のある山梨
県の吉田口まで歩いて行きました。そして、「富士登山33回」の大願も成し遂げ、その記念にこの峰に祭
り、登山の際には、登山の無事を祈りながら旅を続けたことでしょう。またこの神社と関係のある石碑が頂
上にありますので、ご覧ください。こんな小さなお宮にもこの様な歴史が秘められております。
平成13年4月10日   小沢城址里山の会広報担当 菅の語りべ 宮崎

 
 
 
 
 
 
 浅間山から下って振り返り浅間山を見ました。

  伝 馬場の西下に見える郭 
 
伝 馬場と思える郭の先端    先ほど城小屋で見上げた郭の先端 

北条氏康VS上杉朝興の古戦場(麻生区) 

古戦場 川崎市麻生区金程1丁目付近
勝坂 川崎市麻生区千代ケ丘5-7-114

どちらも良い画像が撮れませんでした。
勝坂は、戦に勝った北条氏康が「勝った。勝った」と叫びながら上がった坂だと言われています。





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