赤木城の由来 |
赤木城の築城年代については、和歌山藩が編纂した「紀伊風土記」には寛文雑記を引いて、天正年間、藤堂佐渡守(のちの |
和泉守高虎)と、羽田長門守の両人が北山代官のとき築き罪を犯した者を赤木城の西方の田平子峠で斬首し獄門にしたと記し |
ている。また熊野市神山の倉谷家の文書には天正16年(1588)大和大納言(関白秀長)の北山攻めの後、築城したとある。 |
藤堂佐渡守は天正13年の紀州攻めの際北山入りし、文禄4年(1595)四国伊予3郡を与えられるまでの11年間北山付近 |
に在居し、この間2度の北山の陣で一揆方を成敗したり北山材の切り出しを行っているのでこの頃に現在の城郭に整備したも |
のと考えられる。 |
この城の特長は中世と近世の築城法を併用した平山城である南北約130mの尾根を中心にして縄張りし主郭、南の郭、 |
西の郭を土割りし主郭の東側下の犬走りは北の付曲輪とその下方約50mのっ堀切に通じている。 |
また南の郭の下には付曲輪を残しその西側には自然の谷を空掘りにし防御に備えている。石垣は野面乱層積みで反がなく |
主郭の4隅は算木積みと横矢掛りの工法を用いている。 |
築城当時に原形を残した城跡は全国でも少なく貴重である。 |
このため昭和57年4月田平子峠と共に三重県史跡に指定され、平成元年10月9日には官報第209号の告示により国の |
史跡となった。 平成3年3月 紀和町教育委員会 |