見て歩く日本の城と史跡ー三重県伊賀市(3)

日本一、二を誇る高石垣の伊賀上野城(上野丸之内)

伊賀上野城は、天正伊賀の乱で伊賀忍者が織田信長に敗北するまで、
伊賀忍者のいわば総本山だった上野山平楽寺の跡地に築城されました。
江戸時代は、1国1城令があったにも関わらず、伊勢・津藩は、津城と伊賀上野城と
2城が認められていました。
上野城には城代を置くのみで、藩主に後継ぎがなかった場合、
上野城から、ということはなかったようです。藩主に後継ぎがなかった場合久居陣屋と
養子のやり取りをしたということで、では上野城の役割は何だったのだろうか?と疑問に思っています。

伊賀というと忍者が有名ですが、天正伊賀の乱で織田信長により大打撃を受けたあとは、
生き残った忍者の皆さんはどうなったのでしょう?
徳川家康により江戸で暮らした忍者も多かったようですが、伊賀ではどうだったのでしょうか?

など今も疑問が多いです。

それにしても、昭和10年に完成した天守閣が木造だというのは素晴らしいです。(18/11/19 訪問)

[史跡上野城跡城代屋敷の建物]は、こちら

(現地案内板より 以下も同じです。)

この門から城内に入りました。

白鳳門を進むと、石碑があります。

 
 天正13年(1585)伊賀の国主となった筒井定次が 
文禄のころ、三層の天守をもつ平山城をここに築いた。
 筒井氏国替えのあと、慶長13年(1608)藤堂和泉守
高虎が入国して、これを西方に拡張し雄大な本丸を築き、
さらに外濠を画し典型的な近世城下町を建設した。
 天守は慶長16年、作事なかばに台風の倒壊、再び建
てられることなく廃藩となった。
 現在のものは、昭和10年の復興である。
大通りまで戻って、崇広堂を見学して、堀の外から高石垣を見ることにしました。 


 
この日は休館日で、中には入れませんでした。




 
 
 

 

後で見た、石垣の上の風景

 
 
 

 
ぐるっと回って、白鳳門の反対側から『城代役所跡』に向かいました

 
目の前に天守閣が。

 
城代役所跡のはずれにある階段を上ると、『筒井天守跡』の碑があります。

 
元筒井城跡が藤堂藩城代役所になりました。 








 
 
 
城代屋敷跡には表門と裏門があり、降りたところが天守閣のある郭になります。



昭和10年に完成した木造天守閣

 


ここからは、天守閣の展示物です。
藤堂高虎像








 

20/ 8/ 9 訪問したとき、
藤堂高虎の旗印が目に
入りました。

伊賀衆の総本山だった平楽寺はどこにあったのか?(上野丸之内)

第二次天正伊賀の乱のとき焼け落ちた、伊賀衆の総本山だった平楽寺は、何か遺構が残っているのでしょうか?
平楽寺の跡地に、伊賀上野城が築城されたのはその通りでしょうが、
現在の伊賀上野城のどこに遺構があるか、一目見たいものだと思いました。

下の写真は、駐車場からお城の敷地に入って、坂を登るとすぐ左にあるものです。
ここが一般に、平楽寺跡とされていますが、確認したくてよくご存知の方に教えていただきました。

『この地にあった平楽寺と薬師寺がどこにあったのかは、分かっていません。
あの石碑等がたくさんある場所が平楽寺の跡地だというわけではなくて、
平楽寺や薬師寺のものだったと思える石碑等を集めただけの場所です。
推測ですが、平楽寺は一番高いところにあったのでしょう。
筒井順慶の養子・筒井定次が、最初に伊賀上野城を築いた場所、つまり筒井天守閣があった場所に
平楽寺があったのではないか?とも思われますが、推測でしかありません。』

そう伺って、納得しました。下の写真は同じ場所を方向をそれぞれ変えて撮ったものです。
 (20/ 8/ 9 訪問






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