見て歩く日本の城と史跡ー三重県伊賀市(4)

服部半蔵(正成)の父が築いた千賀地(ちがち)城(予野)

千賀地城には番地がないので、探すのが大変でした。
687号線沿いにある小さな案内碑を見付けてときは、
ホッとしました。
駐車場はなく、北東方向に180m進んだ路肩に駐車しました。

ネット・サーフィン等で得た知識ですが・・・・・・・。
千賀地城は、2代目服部半蔵(以下正成)の父・初代半蔵・保長が
築いた城です。服部保長は、伊賀忍者の頭目でした。
保長は、足利将軍家に仕えていましたが、
後に徳川家康の祖父・松平清康の家臣になりました。
服部正成は、岡崎で生まれて、忍者の訓練は受けず『槍働き』の
武将として、家康に仕えました。

服部家は、天正伊賀の乱には加わらなかったようです。
千賀地城が天正伊賀の乱で、どのように戦ったか等も
良く分かりません。


藤堂采女正については、初めて聞く名前ですが、父親が千賀地城
を居城としていたとのこと。上野城の城代家老であった等、案内板
からの知識しか得ることができません。
比高が18mだったので、楽に登城できました。
                          (20/ 8/ 9 訪問)


(現地案内板より 以下も同じです。)


687号線沿いにある案内碑

案内碑の角を曲がります。
更に右に曲がり、階段を登ります。


やっと本丸に着きました。 本丸を取り巻く土塁






服部半蔵・藤堂采女正 誕生の地
服部半蔵は天文11年此の地に生まれ千賀地氏と称す。
鞍馬権現を念じ18歳にして遁形の術を得海内一の忍術
者となる。徳川家康に仕え後年江戸半蔵門に住す。文禄
4年没す。享年54
天正10年子元則亦此の地に生まる。藤堂高虎に仕え
藤堂采女正を称す。学徳高く伊賀司城職となり仁政を
施して庶民の敬慕篤し、万治3年79歳を以て没す。

『りん ぴょう とう じゃ かい じん れつ ざい ぜん』



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