見て歩く日本の城と史跡ー三重県伊賀市(5)

第二次天正伊賀の乱の後、織田信長が狙撃された敢国(あえくに)神社(一之宮877)

伊賀の国一之宮・敢国神社が服部一族縁の神社だとは、現地案内板で初めて知りました。

以前ネットサーフィンで、知った知識ですが、
第二次天正伊賀の乱で勝利した織田信長は、乱終息後伊賀を視察しました。
そして、敢国神社を訪れたとき、伊賀の忍者・城戸弥左衛門に狙撃されました。
幸いというか、弾は逸れて信長は無事だったのですが、後に弥左衛門は捕縛され、
逃げる途中に、自刃したそうです。歴史は諸説あるものなので、これも記憶に残しておきます。

『信長公記』に、信長の伊賀視察で敢国神社に来たことは書いてありますが、狙撃されたことは書いてありません。
敢国神社の案内板にも、狙撃について記載はありません。
でも、多分、狙撃はあったのでしょう。そう思いながら拝殿をお参りしました。 (20/ 8/ 9 訪問)
  
(現地案内板より 以下も同じです。)




かつては、堀だったのでしょうか?



戦国時代地侍の集合場所だった大光寺(寺田1535)

戦国時代、地侍の集合場所だったという大光寺に行って、その雰囲気なりとも感じたい
と思ったのですが、なかなか見つからず、苦労しました。
結局、見つからずに帰ったのですが、それでも、大光寺は移転して、かつてはここに
あったのか?と思える場所がみられたので、それで満足することにしました。
                                    
 (20/ 8/ 9 訪問)

カーナビの地図で、きっとここが大光寺だろう、と思ったところは、民家のようでした。
(民家だとしたら、勝手に写真を撮ってしまって、すみません。)
ここから少し下って、ぐるっと回ると、
案内板と案内碑がありました。

岡山大光寺 参道
北向地蔵
左の案内板を見て、右の道を登ると
道は行き止まりで、先ほどの民家の上に出ました


上の案内碑を方向を変えて、写真に撮りました。
『昭和57年1月岡山○○』とあり、38年も昔に
作られた案内碑です。

左に進むと、大光寺の納経所はあっても、
大光寺があるわけではないと、勝手に思い込み、
きっとあの民家のあったところに、かつては
伊賀の地侍の集合場所があった大光寺があった
のだろうと思うことにして、戻りました。


大光寺 納経所
毘沙門寺

左の方に見えたこの建物が、現在の大光寺なのだろうかと思いますが、毘沙門寺かもしれません。

お借りした大光寺の写真ですが、現地でしっかり確認せず、残念です。



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