見て歩く日本の城と史跡ー三重県津市(6)

織田信長の弟・信包が養子に入った長野工藤氏城跡(美里町桂畑)

源頼朝の御家人だった工藤祐経の子孫が伊勢の長野に住みつき長野工藤氏を名乗ったのが
伊勢における長野氏の始まりだと言われています。
戦国時代、織田信長の弟・信包が養子に入って、結果長野氏は滅亡してしまいました。
信包は美里町桂畑の城には居住せず、豊津上野にある支城・上野城に住んだと言われています。

伊賀街道から6km以上も奥まった山中にある長野城。
生活に必要な物資はどうしていたんだろうか、など考えると、
信包が住まなかったのも納得がいった気がしました。
  (18/11/24 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

延文5年(1360)は、室町幕府2代足利義詮、後光厳天皇の時代。

伊賀街道・長野宿に見られる案内票


この標識のある場所まで、桂畑川沿いに進んで来たのですが、
ここからは、桂畑川と別れて北上することになります。
以前は、車で城まで行けたようですが、土砂崩れで車の通行不可なので、
2.4kmの道を車を置いて歩きました。


 
通行止になったいます。

   登ってきた道を振り返りました。
 
   あれが頂上かと思いましたが、違うようです。

 
 
 
ここらで半分かと思いましたが、全然違いました。

   
 
    通行止はここ!

 
    きっとあそこが頂上でしょう。

 
 
 
 
 
 
 
本丸と思えます。

やはり、ありました。

 
 本丸の下・腰郭に碑と案内板があります。

 
腰郭から本丸を見上げます。

 右手に碑と案内板
本丸から東方向を見ると長谷山が見えて、邪魔ものがなければ、左手手前に
『長野城西の城跡』『長野城中の城跡』『長野城東の城跡』が見えるはず!

長谷山の右手に、津市の市街地と海が見えます。

北畠(織田)信雄が天正伊賀の乱のとき通過した長野峠(美里町北長野)

下の案内板を見ても分かるように、長野峠はかつてはたいへんな難所だったようです。
江戸時代の伊賀街道は別にして、新街道が3回も造られ、その都度トンネルが掘られています。

戦国時代、北畠(織田)信雄が伊賀に攻め込んだとき、長野峠を通過しています。
当時の長野峠に行ってみたい、でもうまく行かないだろうと思ったのですが、
車で行きつけて、ラッキーでした。
            (18/11/24 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



30分歩く時間がないので車で昭和の道を行くことにしました。 犬塚地蔵を過ぎて右折するのが、旧道です

右折してすぐ左折するのが旧道ですが、写真だけにしました。

 
昭和のトンネルは閉鎖しています。

   車道を進みます。
 
車道の左側に案内ばありました。

   数M先に『長野峠』の標識
 
ここが旧長野峠(津を背にして)

   長野峠(伊賀を背にして)
 
車道の右側・犬塚地蔵から続いている旧道は、ここに繋がっていました。



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