見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県飯山市(2)

上杉謙信の属城だった飯山城(大字飯山2749

国道292号線を上越方向に飯山市街地を左に見ながら走っていると、千曲川西岸に平山城である飯山城が
見えます。かつては泉氏の居館であったと伝わっていますが、後に上杉謙信の属城となり
永禄7年(1564)武田信玄の侵攻に備え縄張り・修築がなされ、以降上杉氏の信濃侵攻の拠点となりました。
階段式に郭を配し、千曲川が外堀の役目をなす堅固な城で流石の武田軍も落とすことはできなかったとのこと。


上杉氏は景勝の時代に会津に移封となり、江戸時代は飯山藩は藩主を転々と替えながらも
飯山藩城主の居城として明治を迎えました。
         (13/11/16 訪問) 

(現地案内板」より)


光蓮寺からみた飯山城。現在東側は千曲川、南側は細い堀に囲まれている。

本丸にある葵神社 本丸   右は葵神社

本丸枡形虎口

二の丸
今は藤棚がある三の丸 二の丸下の廓に弓道場がありました。

武田信繁の孫が開基した三枝山光蓮寺(大字飯山愛宕町2009)

武田家滅亡後、武田信繁の孫(後の正善法師)は信濃に逃れて身を潜めました。
更科に一寺を建立したとき本願寺上人から光蓮寺の名を賜りました。
その後、秋津静間を経て、寛永年間にこの地に移りました。   (13/11/16 訪問)

(現地案内板より)


武田信玄の身代わりになった聖徳太子像がある倉科片雄山西敬寺(大字飯山奈良沢2125)

親鸞の弟子だった釈善巧により、
建長7年(1255年)倉科(現千曲市倉科)に建立された後、
移転を繰り返し寛文12年(1672年)に現在地に移りました。

西敬寺には、二体の像があります。
その1つは、「上杉謙信より拝領の小仏」で、川中島合戦の際、
謙信が敵に追われて綱きりの渡しを無事に渡った時に、
渡守りにお礼として下されたと伝承のある小仏で、
安田村の檀家より奉納されたもの。

もう1つは、長野県の県宝とされている所蔵の聖徳太子像で、
釈善巧が親鸞聖人の弟子となった記念に刻んでもらったものと言われ、
武田信玄の身代わりとなったとも伝えられています。
信玄の時代には、中野市牛出にあったようです。 (13/11/16 訪問)


(現地案内板より)


綱を切って追ってくる野武士から謙信が逃れた綱切の渡し(大字飯山)

永禄4年(1561)の第四次川中島の激戦後、上杉謙信は家臣とともに、
山道を越えて落武者狩りの野武士に狙われながら、
千曲川の安田の渡しまで辿りつきました。
渡し場の水面に張った大綱を切り落とし、
追って来る野武士らの行く手を断つため
船の往来ができぬようにして、春日山城まで無事帰還できました。
それが安田の渡し場が「綱切りの渡し」と呼ばれる所以です。
現在の綱切橋のたもとには川を渡る謙信主従のレリーフが
刻まれています。

因みに、当時、川を越える方法の一つに、
川の両岸に張った綱を手繰るなどして
船を渡した綱渡し(操り綱式)があったそうです。 (13/11/16 訪問)



橋のたもとにあるレリーフ(謙信は槍で綱を切ったという説があるそうです。)



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