見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県小諸市(1)

信玄が山本勘助に縄張りさせた小諸城(懐古園)(丁311 )

現在懐古園として観光名所になっている小諸城は、別名、酔月城、穴城、白鶴城とも言われます。
穴城というのは一般に城というもの取り巻く町より高いところにあるものですが、
小諸城は低いところにあるので、そう呼ばれるようになったとこことです。

長亨元年(1487年)に大井光忠によって築城された後、
戦国時代に武田信玄が信玄の軍師であった山本勘助に縄張りを命じたという言い伝えがあります。
天守閣の石積みはは戦国時代のものが積み直さず残っていると言われていますが、
戦国時代と言っても後半で、山本勘助が積んだものではないだろうと私見ながら思っています。

江戸時代に入り、豊臣秀吉の家臣であった仙石秀久が小諸藩の城主となり、現在の城跡の形を作ったと言われています。
小諸藩は城主が替わりながら、幕末まで続きました。                (2013/10/14 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)



小諸城址懐古園
天文23年、小諸城は武田氏の所領となり、重臣山本勘助らに
縄張を命じて複雑多岐な地形を巧に利用し、穴城を築城する。
その後信玄は弟信繁の嫡男信豊を城主にする。
以来、城主は原型を継承して頑強な帯曲輪と石積み、城壁、
大手門など城門を築き、近世の城郭に改修する。
明治初期、牧野廉済の廃藩で小諸城址となり、懐古園になる。
           2007年大河ドラマ  風林火山





現在の大手門

写真で見るかつての大手門
重要文化財 小諸城三の門
                   (平成3年12月9日国指定)
小諸城は慶長元・4年間(関ヶ原の役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城した。
この三の門と同様に一連の造営の中で、創建されたものです。
しかし寛保3年(1742)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流失し
約2年後明和年代に再建されて現代に至っています。
寄棟造り桟瓦葺の楼門で
1階は桁行3間(1間は約1,8メートル)
北脇に潜戸を構え、○金具八双金具等が施してあります。
2階は両側に袖塀を設け、矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残しています。
桁行5間、梁間2間で内部は住宅風の1室になっています。  
大手門とともに小諸城の貴重な建造物として国の重要文化財指定を受けています。
    文    化   庁   小諸市教育委員会    宗教法人小諸神社


徳川家達公の筆になる。
三の門

二の丸跡 二の丸を取り巻く土塁(戦国時代のものか?)

 
二の丸跡(関が原の戦いに向かう徳川秀忠が逗留しました。)

登ったところが南丸跡

南丸跡











山本勘助愛用の鏡石   懐古神社に向かって右にあります。

本丸跡にある懐古神社

本丸跡にある池 本丸を取り巻く石垣

天守台跡

下から見た天守台
戦国時代の石積みがそのまま残る。

動物園に向かう途中にある焼け石
本丸から見た自然の空堀
これを見て信玄が城の改築を決めたそうです。

動物園側から見た自然の空堀
千曲川沿いに下りていく途中に見る千曲川 千曲川の断崖にある空堀
戦国時代に掘ったものかと思われます。

信玄が川中島合戦の勝利を祈願した妙雲山長勝寺(与良町2-3-15)

長勝寺宗派真言宗
長勝寺は、北国街道沿いにあります。川中島合戦の折この地を通過した武田信玄は、
ここで戦勝祈願をして寺の名前を変更させて長勝寺としました。
山門に大きなお面がかけてあり、庶民の信仰を集めているんだそうです。

                 (2013/10/14 訪問)

山門 本堂

天狗ではなさそう。 羽子板の飾りがある十九夜堂



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