見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県小諸市(3)

信玄の侵攻に対し戦った楽巌寺城(大久保字前法)

楽巌寺城について、現地に案内板はなく、しかも別荘地になってしまって、史跡がよく分かりませんでした。
それでも、今まで戦国時代の城を幾つか見てきた経験から、それなりの推測はついただろうと思いました。

楽巌寺城は、楽巌寺雅方によって築かれたと云われています。
天文17年(1548)武田信玄がこの地に侵攻したとき楽巌寺雅方は、堀ノ内城の布下雅朝とともに戦いましたが、落城し、
村上義清を頼って落ち延びました。村上義清が武田信玄に敗れて上杉謙信を頼って落ち延びた後は、信玄に臣従したそうです。

この信玄の侵攻時に、布引観音が消失しました。                    (17/ 8/27  訪問)

布引観音、楽巌寺城、堀ノ内城の位置関係


 
 石碑があるけれど読めません。(布引観音方向の右)

   布引観音方向の右にある郭とも見える広場
堀と思われます。(布引観音方向の左)


土塁が破壊されています。(布引観音方向の左)

破壊された土塁(布引観音方向の左)

道路に切断された土塁(布引観音を背に)
カーブを曲がって少し進んだところ左側にある通路

通路の左側を登る。
郭らしきところと土塁がある。

土塁から見下ろすと別荘が見えました。 布引観音方向をを背にして道路と
平行している土塁を歩きました。

 土塁の左側(郭と思われます。)    土塁の右側(空掘の向こうに別荘が見えます。)

 土塁が道に近づいて来ました。((布引観音を背にして))  

信玄の侵攻に対し戦った 堀ノ内城(大久保2289)

堀ノ内城は、民家が建っていて、案内板もなく史跡はよく分かりませんでした。

堀ノ内城は、布下に居館を構える布下仁兵衛雅朝の詰の城でした。
天文17年(1548)武田信玄がこの地に侵攻したとき布下雅朝は、楽巌寺城の楽巌寺雅方とともに戦いましたが、落城し、
村上義清を頼って落ち延びました。村上義清が武田信玄に敗れて上杉謙信を頼って落ち延びた後は、信玄に臣従したそうです。

この信玄の侵攻時に、布引観音が消失しました。       (17/ 8/27  訪問)



城跡と思える場所を通る道

道の左側の住宅の手前の平地

郭と思える平地の奥にある石碑

郭の端は深い空掘りか?
道を進んでいくと、三日月型の池
堀ノ内城時代の堀か?

 
道を進んで振り返ると、郭と思える段差がありました。   更に奥に池がありました。 



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