見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県大町市

仁科氏の詰めの城・森城(平)

森城は、仁科氏の詰の城で木崎湖畔にあり、東部を木崎湖に、西部を沼地に囲まれた要害の地にありました。
現在では沼地部分が埋め立てされているので、当時とはかなり様子が違います。
仁科盛政が武田信玄に討たれた後、仁科氏の正統は途絶えたので、信玄は五男である盛信と盛政の娘を結婚させて
仁科氏の名跡を継がせました。信玄は、盛信に城郭の修理などをさせましたが、武田家滅亡時、盛信も高遠城で討死し
いつ森城が廃城になったかは、分かっていません。
三の丸の位置は分かり易いのですが、二の丸は特定できませんでした。
本丸跡にある仁科神社は、明治になってから造られたものです。近くを塩の道が通っています。  (14/ 6/13 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

森城の見取り図と海野氏が築城した城の配置図

仁科森城址保存会作成の幟

トレッキングの案内板より

かつての本丸にある仁科神社

仁科神社本殿

本丸を囲う土塁

本丸から見る木崎湖

堀址
向うに見えるのが阿部明神

阿部明神

鷹の羽の家紋 三の丸はここか?

塩の道案内図
森城近くの案内板より)

塩の道(北方向) 塩の道(南方向)

仁科氏居館跡・青龍山天正寺(北原町4729)

仁科氏の居館は大町市街の天正寺のある場所にあり、仁科城とも呼ばれていました。
現在も堀や土塁が残っているようですが、お寺だけ見て帰ってきてしまいました。
10代以上続き、繁栄した仁科氏ですが、最後の城主仁科盛信(武田信玄5男)が高遠城で織田軍の滅ぼされると
居館は城に改められました。年号にちなんで天正寺、山名は盛政の法名からとって青龍山と名づけられました。
                                          (14/ 6/13 訪問)

仁科氏居館址

居館跡の説明版

仁科城址の碑
(犬養毅の書による)


元禄元年の造られた山門 本堂



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