見て歩く日本の城と史跡ー奈良県天理市

古墳を城として使った柳本城(柳本町) 

古墳を城として使った柳本城をGoogle Mapで探しても、黒塚古墳としか出てきません。
しかし、室町時代の後期に、柳本氏が黒塚古墳を城として使い、
後に松永久秀がこの城を再利用したと読んだことがあります。

松永久秀が織田信長との戦いに敗れ爆死した後、柳本城は筒井順慶の支配下となりました。

信長の大和一国一条令により、筒井順慶は自らの城筒井城と柳本城を破却して郡山城に入り
ました。後に、
織田有楽斎の五男尚長が1万石の大名としてこの地に入り、
幕末まで織田藩として続きました。


現地にある案内板などから、この古墳が城(砦)として使われた痕跡があること、織田藩時代に
古墳の上に建造物はなかったのでは?と思えること、などが分かりました。織田藩は、
古墳の外(現柳本小学校の地)に陣屋を築き、後にその陣屋は城に格上げされたそうです。

織田家の陣屋は、明治になって橿原神宮に移築されて、今も美しい姿を保っています。
織田時代の史跡を案内するものは何もありませんが、地元の人から聞いたものもあり、
当時を偲ぶこともできました。                (18/ 9/14 訪問)


黒塚古墳の資料はこちら

かつて城(砦)として使われたこともある『前方後円墳』

『碑文の要旨』は、この下に。

この碑の内容から、織田氏の時代には黒塚古墳に建造物はなかったと思われます。

『前方』から見る柳本小学校(かつて陣屋があった場所)

『後円』方向に進みながら

今来た方向を振り返って
 
    この当たり埋め戻された掘割があるのでしょうか?


『後円』のてっぺん

てっぺんから、柳本小学校を見る。
てっぺんから見下ろす。

反対側の階段
 
織田氏時代の石垣が残る。

 
 
 
 
『JAならけん柳本』がある場所の石垣も織田氏時代のもの

お堀の外から撮った『後円』  
お堀のの近くの立派なお家。通り掛りの人に伺った
ところ、織田家の重臣の末裔のお宅だとか・・・・・・。


織田氏時代の大手門(前にある掲示板は、観光案内板ではありません。右のひっくり返してあるものも同じです。)
大手門は、元々この地にあったのではなくて、多分、明治になって払い下げとなり、移築されたものだろうと思われます。



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