見て歩く日本の城と史跡ー奈良県宇陀市(3)

織田信雄の宇陀松山藩・向屋敷跡だった春日神社(大宇陀春日)

宇陀松山城は、秋山氏によって築かれた城で、かつては秋山城と呼ばれていました。
元和元年(1615)廃場になって以来、後にこの地が織田信雄の所領となっても、
宇陀松山城が使われるということはありませんでした。

織田信雄は、現在の春日神社のある場所に向屋敷を築き、城は持たなかったということです。
現地案内板では、宇陀松山城(秋山城)と織田氏屋敷との違いが分かりにくかったのですが、
多分こうだろうと思う状態で、アップロードします。        (18/11/19 訪問)

城下町「松山」の成立と発展
 「松山長」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた、豊臣家配下の大名の城下町と
して成立した。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島考治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。
 元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日
神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付
近に、「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人街を定めました。
 元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけがのこりましたが、元来
奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦地からは米や塩、その他の日常物質を、山間部
からは薪隅や木材、特産品の吉野葛・宇陀紙を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。城下町としての機能
を失っても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り薬問屋や紙問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の資料には、三と
八の日には市が開かれ、遠く室生・曽禰・御杖からも客が来ると記されているように、広域な商圏を持つ在郷町であっ
たことがうかがえます。
 現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物 
や歴史的街なみを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。
(現地案内板より 以下も同じです。)

(現地案内板より 以下も同じです。)

史跡旧松山城西口門
ここは旧松山城大手筋にあたる西口関門である。建築は徳川初期ものと認めら
れ正面の柱間13尺5寸両内開きになっていて左右に袖垣を付けた高麗門の形
である。門を含む地域は桝形になり旧位置に現存する城下町の門としては珍し
いものである。
松山城は旧名秋山城と呼び秋山氏の築城に始まる。天正・元和の間
次第にその形を整え福島掃部頭の居城とした。慶長年間城郭ならび
にその城下町の完成を見るにいたった。この西門もその頃の構築に
かかるものである。
                  大宇陀町教育委員会
手斧の跡が見えます。

戦国時代の大橋

松山藩陣屋の堀
松山西門関門

松山西門関門・正面

松山西門関門・後面
恵比寿神社

 
古い家並が残る宇陀藩城下町

 
 
 
 
『犬矢来』が美しい。

   
 
桝形になっている春日神社参道    


春日門跡

右奥が春日神社
 
 

春日神社由緒
 当社の創建について詳しくは分からない。しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社が多く所在し当社地
も中世の春日荘(応永13年(1406))作とされる「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社
を勧進したものと考えられる。
 また絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経ていったん春日神社に入る。そして神社
から再び城に向かう構造をとる。つまりこの時代の春日神社は城郭としての昨日もあわせ持っていたのである。

松山藩の屋敷があった痕跡のない春日神社境内

春日神社水鉢
江戸時代(元禄6年・1693)
宇陀市指定文化財    
 表に「奉寄進」、裏に「元禄6年癸酉12月朔日萩野五郎左衛門とある。
 本水鉢を寄進した萩野五郎左衛門は、織田家宇陀松山藩4代藩主信武時代
の用人である、元禄年間は奉納的石造物が集中的に造られた時期であり、本品
もその歴史的な流れの中にあることを示している。
 また翌元禄7年(1694)秋には、藩主織田信武の家臣である田中五郎兵衛・生
駒三左衛門を処し、自害するという事件が起こる。これが原因となり翌元禄8年に
織田家は丹波国柏原に所替えとなる。(「宇陀崩れ」)
 織田宇陀松山藩時代最後の時期の遺品として貴重である。

春日神社水鉢



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