城下町「松山」の成立と発展 |
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「松山長」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた、豊臣家配下の大名の城下町と |
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して成立した。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島考治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。 |
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元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日 |
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神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付 |
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近に、「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人街を定めました。 |
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元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけがのこりましたが、元来 |
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奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦地からは米や塩、その他の日常物質を、山間部 |
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からは薪隅や木材、特産品の吉野葛・宇陀紙を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。城下町としての機能 |
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を失っても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り薬問屋や紙問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の資料には、三と |
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八の日には市が開かれ、遠く室生・曽禰・御杖からも客が来ると記されているように、広域な商圏を持つ在郷町であっ |
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たことがうかがえます。 |
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現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物 |
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や歴史的街なみを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。 |