市指定文化財史跡(昭和48年8月1日指定) |
琵 琶 嶋 城 跡 |
鵜川は、昭和30年代の河川改修の実施までは、この辺りは、多きく蛇行を繰り返していた。横山川等の支流の合流点でもあ |
り、周辺の水田も土地改良前にはたいへんな深田であった。枇杷嶋城は、これらの地形をうまく活かして築かれた平城である。 |
枇杷嶋城の本丸跡は、は江戸時代の記録(白川風土記)に東西40間、南北60間とあり、ここに農業高校が建設されるまで、 |
周囲を囲う高さ2〜3m・基底部4〜5mの大土塁、東に大手、西に搦手の虎口などの遺構も残っていた。地元では、この本丸を |
勝島と呼び、二の丸を福島、金曲輪(三の丸)を枇杷島と伝えている。 |
城主については、江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」などの軍記物によって、宇佐美駿河守定満であり、上杉謙信 |
の軍師」が広く喧伝され、また、NHK大河ドラマ「天と地と」によって、今や定着した感がある。 |
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ここに城が築かれた起源は不明だが、中世越後有数の湾港「柏崎湊」と「柏崎町」の支配と防衛のために、上杉-長尾家の |
直領としてそのー族や重臣が城主として派遣されていたものと考えられる。 |
資料で確かめられる城主としては、永禄〜天正初年(1558〜1573)は「枇杷嶋殿(越後侍衆祝儀太刀次第写)」、能登出身 |
の琵琶嶋弥七郎(越後諸士)」の名が見え、天正12年(1534)の御館の乱の恩賞として「桐沢但馬守具繁」が就任している。 |
なお、江戸時代には当城は廃され、その機能は大久保などの陣屋に移った。 |