見て歩く日本の城と史跡ー新潟県柏崎市(1)

上杉氏の重臣宇佐美定行の琵琶嶋城址(元城町1−1)
 
上杉謙信の軍師と言われた宇佐美定行/定満の琵琶嶋城だったと言われる場所が、二ヶ所にあります。
一つは新潟県柏崎市に、もう一つは長野県の野尻湖に。
桶狭間の合戦場だと云われる場所が二ヶ所に、明智光秀の出生地だという場所が六ヶ所以上にあると
云われているので、何ら不思議ではないので、どちらも行ってみたいと思っていました。
まずは、柏崎市の琵琶嶋城を訪問したのですが、案内板にある昭和30年前の琵琶嶋城を
見たかったと残念に思いました。
現在、遺構は何も残っていないのですが、高校の片隅にある『琵琶嶋城址』の碑をしばし、眺めました。
                                        (20/ 9/18 訪問)

市指定文化財史跡(昭和48年8月1日指定)
琵 琶 嶋 城 跡
 鵜川は、昭和30年代の河川改修の実施までは、この辺りは、多きく蛇行を繰り返していた。横山川等の支流の合流点でもあ
り、周辺の水田も土地改良前にはたいへんな深田であった。枇杷嶋城は、これらの地形をうまく活かして築かれた平城である。
 枇杷嶋城の本丸跡は、は江戸時代の記録(白川風土記)に東西40間、南北60間とあり、ここに農業高校が建設されるまで、
周囲を囲う高さ2〜3m・基底部4〜5mの大土塁、東に大手、西に搦手の虎口などの遺構も残っていた。地元では、この本丸を
勝島と呼び、二の丸を福島、金曲輪(三の丸)を枇杷島と伝えている。
 城主については、江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」などの軍記物によって、宇佐美駿河守定満であり、上杉謙信
の軍師」が広く喧伝され、また、NHK大河ドラマ「天と地と」によって、今や定着した感がある。
 ここに城が築かれた起源は不明だが、中世越後有数の湾港「柏崎湊」と「柏崎町」の支配と防衛のために、上杉-長尾家の
直領としてそのー族や重臣が城主として派遣されていたものと考えられる。
 資料で確かめられる城主としては、永禄〜天正初年(1558〜1573)は「枇杷嶋殿(越後侍衆祝儀太刀次第写)」、能登出身
の琵琶嶋弥七郎(越後諸士)」の名が見え、天正12年(1534)の御館の乱の恩賞として「桐沢但馬守具繁」が就任している。
なお、江戸時代には当城は廃され、その機能は大久保などの陣屋に移った。
(現地案内板より 以下も同じです。)



本丸
二の丸
三の丸

(図 植木宏)

上の2枚の地図で、鵜川神社と行通寺が共通ですので、比較ができます。

高校の片隅にある琵琶嶋城の石碑

石碑のある小さな森の側面

枇杷嶋城址



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