安 田 城 址 顕 彰 碑 |
安田毛利氏は、源頼朝に仕えた大江広元○○○いわ○広元の4男季光が相模国愛甲郡毛利庄 |
(神奈川県厚木市)を居住地としたことから毛利氏を称していたと、伝えられている。 |
季光の子経光は、ゆえあって佐橋庄南条に住み、その孫時元が初代北条城主毛利丹後守時元 |
で北条2代城主憲広の次男憲朝は、今から605年前(応安7年)この城主となり毛利安田氏 |
を称した。以来224年間にわたり上杉家の忠臣として活躍したが、8代能元は主君上杉景勝 |
に従って会津に移ったことによりこの安田城は廃城になったのである。 |
然し能元が慶長6年主君と共に米沢に移封されたときでも禄高は4333石で上杉家筆頭であ |
り、その地位は幕末まで保ちつづいたことが明らかになっている。 |
公園とよばれ安田地区の人々は親しまれてきたこの城址が、近年荒れていくのを惜しみ、地元 |
城之組部落の計画的整備を引き金として、昭和53年大字毛利協議会が毛利氏のその後の調査 |
のために米沢に派した代表により、毛利安田氏の血脈が今も続いているばかりでなく、その菩 |
提寺と共にこの安田城から能元に従って移り住んだ子孫の人達とも、381年目に再会できた |
との報告を得、「ふるさと安田」の歴史の重みを後世に永く伝えるため、誇りを持ってここに |
安田城址顕彰碑を建立するものである。 |
この碑の建設資金は、われわれの呼びかけに応えた安田地区民の寄付金216万によってまか |
なわれ、碑名は上杉家16代当主隆憲○氏の揮毫によるものであり、碑文は記念碑建立委員会 |
が各界の指導をうけながらまとめたものである。 |
昭和54年11月23日 安田城址記念碑建立委員会 |