見て歩く日本の城と史跡ー新潟県長岡市与板町(井伊氏史跡)

井伊氏の与板城址(与板甲339−1)

徳川四天王のうち最年少の井伊直政は、武田の赤備えを引き継ぎ、『赤鬼』と呼ばれるほどの猛将でした。
直政には正室の子供である長男直継(直勝)と側室の子供である次男直孝とがありました。
関ヶ原の合戦の2年後、直政は合戦時に受けた怪我が悪化して亡くなりました。

直政の性格を受け継いだのは次男の直孝で、大阪冬の陣、夏の陣では、井伊家赤備えを率いて奮戦しました。
結果冬の陣の後、次男が彦根藩主となり、戦うのが不向きな長男は安中藩3万石の藩主となりました。

その後、安中藩、三河国西尾藩、掛川藩と移報を繰り返し、最後に家督を譲った息子の直好と共に与板藩に落ち着きました。
与板藩は直政の長男の家なので、直政の遺品が与板に残ることとなりました。
井伊家が与板に移報となったときは、前任の牧野家の陣屋に住みましたが、後に城を持つことを許されて、
築城し、引っ越ししました。井伊家の与板城は戊辰戦争のとき災禍に遭い、大手門と切手門以外何も残っていません。

複数の与板藩の藩主が彦根から養子に入っていますが、与板から彦根の養子に入ることはなかったようです。
因みに、幕府は直政の血筋を引かない藩主を認めなかったので、現在に至るまで直政の血筋が残っているようです。
多分、与板井伊家も同じではないかと思います。                   (18/05/13  訪問)

[与板地域案内図]はこちら

復元された井伊氏・与板城の冠木門

(現地案内板より  以下も同じです。)




『与板民族資料館』にあるクジャクの羽根で作った陣羽織の複製品
井伊直政が本能寺の変の後、都から逃げ帰る徳川家康を助けた功績により
家康から頂いたものの複製品です。

今は長岡市与板支所となった牧野氏・井伊氏陣屋跡(与板甲134)

牧野氏・井伊氏の陣屋跡は、与板支所のあたりだと分かっているようですが、
史跡は何も残っていません。   
       (18/05/13  訪問)

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長岡市役所与板支所

 
 
 
 
 
 

本願寺・新潟別院に移築された井伊氏の与板城の大手門(与板乙4356)

戊辰戦争では、彦根井伊家は官軍として、桑名城や会津城を攻撃しました。
戊辰戦争当時の彦根藩主と与板藩主は兄弟で、井伊直弼の息子でした。
与板藩に会津を攻める力はなかったでしょうが、与板藩主は、兄に従ったと思われます。
残念ながら与板城は火災に遭ってしまいましたが、大手門は残りました。
                              (18/05/13  訪問)

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本願寺・新潟別院 

恩行寺に移築された井伊氏の与板城の切手門(与板721)

戊辰戦争では、彦根井伊家は官軍として、桑名城や会津城を攻撃しました。
戊辰戦争当時の彦根藩主と与板藩主は兄弟で、井伊直弼の息子でした。
与板藩に会津を攻める力はなかったでしょうが、与板藩主は、兄に従ったと思われます。
残念ながら与板城は火災に遭ってしまいましたが、切手門は残りました。
                              (18/05/13  訪問)

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 井伊家に伝わる宝物を保存している井伊神社(与板甲305)

訪問した当日は、井伊神社の鎮守の例大祭でした。
地元の人たちが井伊神社を愛しているのがよく分かりました。
                        (18/05/13  訪問) 

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