見て歩く日本の城と史跡ー沖縄県名護市

名護市の歴史の中で重要な位置をしめる名護城(ナングスク)(名護)

 前日、今帰仁城を訪ねて、その石垣の見事さに圧倒されていたので、石垣が残らない
名護城にややガッカリしたのですが、帰宅して案内板を詳しく読んでみると、名護城の
重要さが分かりました。名護城は、名護城公園の一部のようにも見えましたが、この公
園には、かつて名護人が生活していたのでしょう。堀切を確認しなかったのが残念です。
                     (25/ 2/20 訪問)


       名護城の由来
 名護城は、名護人発祥の地である。14世紀の初めころ、北山(今帰仁城)の〇名護按司(領主)は今帰仁から別れてこの
山上に城を築いた。周辺の丘陵には〇〇の統治する領民が住んでいた。それから約200年の後尚真三の中央集権によって名
護按司とその一党が首里に引き上げたので残された城村の住民は、思い思いに平地へ移住した。名護人は、それ以来この地に
氏神を祭って尊崇し、今日に至っている。
 昭和3年神殿に拝殿の改築を記念して城青年団が参道沿いに桜を植えた。この桜は誹寒桜で1月の下旬の美しく開花する。
 今では、日本一早い桜の名所として全国に知れわたり、この由緒ある名護城で、昭和37年以降毎年1月に華やかな桜まつ
りが催されている。                       昭和56年1月  名護城燈籠建設委員会


桜は終わっていたのですが、少し残っていました。

車でF地点まで登り、城跡を散策しました。
              名護城跡  文化財指定候補(史跡)
 桜(カンヒザクラ)の名所として全国的に有名になった名護グシクは、名護市の歴史の中で重要な位置をしめる遺跡の一つです。
 このグシクに、いつ頃から人が住みはじめたのか定かではありませんが、これまでに採集された中国製磁器類・カムイ焼き・高
麗系瓦・土器などのさまざまな遺物からすると少なくとも約600年前(14世紀)のことだと考えられ、名護按司の居城として伝
えられています。その頃は「グスク時代」と呼ばれ奄美諸島から八重山諸島に至るまで、人々は「グスク(グシク・シク)」呼ばれ
る小高い丘の上に暮していたようです。また、それまでの数千年にわたる海や山の自然物の採集・狩猟による生活から、農業を
中心とした生活に転換した時代でもあります。
 このグシクには、石垣をめぐらした防御の施設はありませんが、丘陵の尾根部を切り取ったみごとな「堀切」が残っています。グ
シク頂上部に続く〇〇の穏やかな尾根を、一つは3m、もう一つは8mの深さに削り取った「二重の堀切」は保存がよく、注目を集
めています。
 またグシク内には、祝女殿内・根神屋・掟神屋・フスミ屋・神アサギなど、城区の拝所があり大切な信仰の場所となっています。


掟神屋跡だと思われます。 主廓まで階段が189段

主廓には、案内板と東屋があるだけでした。


階段を下りて、階段に向かって右にある根神屋に向かいました。



ビジターセンターにあったもの。昔の名護人の衣装かと思いました。

石垣等が残っていない親川城跡(字親川)

たまたま通りかかったので行ってみましたが、『親川城址』の石碑が」ある
だけで、史跡らしきものは見当たりませんでした。それでも、ここにお城が
あったのだ、と思うと、感慨がありました。 
  (25/ 2/20 訪問)


名護市ホームページより



名護市ホームページより




日本の城と史跡・目次