見て歩く日本の城と史跡ー埼玉県行田市(1)

忍城を取り巻く沼だった水城公園(水城公園1249)

忍城を取り巻いていた沼が、全て埋め立てられていると思っていたので、
公園として残っていたのは、嬉しかったです。
1月と言え、雲一つない暖かい日に散策ができて楽しい時間が過ごせました。
                      (19/ 1/14 訪問)  

(現地案内板より)




 
 
 

江戸時代の忍城の名残と現在の忍城(本丸17−23)

忍城というと『のぼうの城』を考えますが、現在の忍城は、江戸時代に大改築された上に
明治に入って破却され、ほとんど史跡らしきものは残っていないそうです。
本丸は野球場が造られていた時代がありましたが、現在は模擬三層櫓を含む
郷土博物館になっています。
江戸時代の忍城の史跡としては、伝進修館表門、忍城櫓の石垣、本丸土塁などがあります。

なお、忍城が開城した後、深溝松平家4代家忠が入城しました。
松平家忠は、戦国を知る『家忠日記』の著者として有名です。
忍城は、家康の四男・松平忠吉に10万石で与えられましたが、忠吉はまだ幼少のため、
彼が成人するまでは松平家忠が預っていたということです。      (19/ 1/14 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

  忍城の由来
忍城は文明10年(1478)頃、成田顕奏により築城された「守り易く攻めにくい」難攻
不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻め
にも耐えたこの城は、水に浮くかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋が入城し、忍城大改革に着手。孫の正武の代に
いたり忍城御三階櫓の建設、城門・土塀の修築などが完成し、面目を一新したという。
文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠尭が移封し、忠誠のとき明治維新を迎えた。
市では維新後取り壊されていた城郭の面影を再建し、永く後世にに伝えることになった。
  平成3年3月                                 行田市


(現地で頂いたパンフレットより)


 
復元された 模擬三階櫓

 
 
 
 
三階櫓近くに復元された門・表側

 三階櫓近くに復元された門・背側
 
『おもてなし甲冑隊』による演武


 
松平忠堯が桑名から移封のとき持ってきた鐘

 
 
 
 
行田市郷土博物館の門

成田氏家紋
 
 
 

伝進修館表門・背側

伝進修館表門・表側
 
 
 





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