花倉の乱の舞台花倉城(花倉城山) |
今川範国が藤枝市花倉に進出したとき、居住用の居館と詰の城花倉城を造りました。
後に今川氏は駿河に本拠地を移すわけですが、
8代目氏輝と弟の彦五郎が、天文5年(1536)3月17日同日に死亡したことから、
跡目相続の内乱が起こりました。
7代氏親の正室寿桂尼は、自分の息子であり善得寺で出家した栴岳承芳を跡目にしようと考えました。
栴岳承芳には花倉の里にある偏照寺の住職をしている兄(寿桂尼の子供ではない)玄広恵探がいたのですが
跡目を弟に奪われることを不満とした玄広恵探は、花倉城で乱を起しました。
栴岳承芳には太原崇孚という軍師が付いていたこと、北条氏綱が栴岳承芳側に付いたことなどにより、
ほぼ1ヶ月半くらいで栴岳承芳の勝利となり、玄広恵探は自害しました。
この後、今川義元と名を改めた栴岳承芳と軍師太原崇孚と寿桂尼の三頭政治となり、
今川家の繁栄をもたらします。
太原崇孚は、桶狭間の合戦の数年前に死亡しており、もし太原崇孚が生きていたら、
桶狭間で義元が命をなくすようなことはなかったろうと言われています。 (2014/
3/18 訪問) |
左:花倉城(八幡神社近くの案内板より) 右:花倉の里と花倉城(長慶寺の案内板より) |
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あと10分で本丸
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本丸に続く土橋
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二の丸土塁
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二の丸と本丸を繋ぐ空堀
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標高297mの本丸
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二の丸から見る花倉の里
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八幡太郎義家が多くの品を奉納した八幡神社(花倉332)
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八幡神社は元々は葉梨郷社と呼ばれていたのですが、
武田の始祖新羅三郎義光の兄八幡太郎義光が奥羽安倍氏討伐に出向く際、
信心深く多くの品を奉納したことから、八幡神社と呼ばれるようになりました。
今川氏の初代範国がこの地に居住したとき、今川家の産土神として尊崇されました。
永禄11年(1568)、武田氏の兵火により社殿などが灰燼と帰しました。
後に豊臣氏、徳川氏の庇護を受けて、明治維新を迎えました。(2014/ 3/18 訪問)
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玄広恵探が在住した華蔵山偏照寺(花倉397-1)
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今川氏2代の範氏創建によるお寺です。
永禄11年(1568)、武田氏の兵火により花倉館と共にし焼失しました。
現在の偏照寺は、創建の頃のものとは少し場所がずれていて、
花倉館もどこにあったかはっきり分からないそうです。
偏照寺は範氏とその子氏家の菩提寺であり、花倉の乱を起した玄広恵探が在住した寺でもあります。
(2014/
3/18 訪問)
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偏照寺本堂
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花倉の里
今川氏の館はどこだったか特定できませんでした。
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花倉の里から見た花倉城
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今川氏の菩提寺大楊山長慶寺(下之郷1225)
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大楊山長慶寺は今川氏の菩提寺で、3代泰範が開基として建てられました。
今川氏は現在の藤枝市花倉を本拠地としていましたが、今川範政の時代に駿府に移りました。
今川義元の軍師であった太原崇孚は
晩年花倉に戻り、寂れていた長慶寺を再建し、この地で最期を迎えました。
長慶寺には、3代今川泰範と太原崇孚のお墓があります。 (2014/ 3/18 訪問)
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長慶寺本堂
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美しい庭
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左:今川泰範の墓 右:太原崇孚の墓
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