見て歩く日本の城と史跡ー滋賀県近江八幡市(2)


織田信長が精魂込めて築いた安土城(安土町下豊浦)

織田信長が精魂込めて築いた安土城は、テレビドラマにもよく出てくるので、天守閣など知っている
ような気分になりますが、実際に行ってみると、そのスケールの大きさに驚かされます。
戦国時代の城というと、要害城と根小屋がセットになったものが多く、信長の安土城の前の城、
岐阜城も、信長の居館は稲葉山の麓にありました。
岐阜城時代、信長は頻繁に稲葉山頂上にある天守(?)に登っていたという話を聞きましたが、
ここ、安土城では、根小屋は造らず天守で暮らしていたのでしょう。
天守に登る石段の脇に家臣の屋敷を作り、そういう意味では上杉謙信の春日山城に似ています。

現代人でも工夫して家を建てると、また更に改良したものを建てたくなるという話を聞きますが、
信長がもし、本能寺の変で死ななければ、もっと別の城を建てていたかもしれません。
                                  (19/ 9/18 訪問)
標高 199m 比高 112m
諸説あり
[大手道跡の石仏]の写真はこちら
(安土城遠景)

(現地案内板より 以下も同じです。)



大手道の両側に何段かの郭がありました。


ここで入場料を支払います。


登り始めすぐ左に羽柴秀吉屋敷跡
右に前田利家屋敷跡
前田利家屋敷跡には、入れませんでした。





秀吉邸のすぐ上、右側にハ見寺

秀吉邸から見るハ見寺
伝徳川家康邸跡に移動したハ見寺

ハ見寺には、入れません。


織田信忠屋敷跡-草が生い茂っていました。



織田信澄邸址

森蘭丸邸址
織田信澄邸と森蘭丸邸は、道を挟んだ場所にありました。

織田信澄
織田信長の同母弟・信行の息子。信行が信長に殺される悲劇はあったが、織田御一門として遇された。
本能寺の変の後、明智光秀の娘を妻としていたため、織田信孝等に殺害された。

この附近、石の加工跡が見えます。


黒金門跡

黒金門の石碑
二の丸に『織田信長公本廟』があります。




仏足石(室町時代中期)
この仏足石は大手道石段など見られる石佛と同様に築城当時に石材として集められ石垣に使われて居た様で
昭和初期に登山道として整備事時、この附近の崩れた石垣の中から発見された。○○○○佛足跡を表現した
もので、古代○○○○佛像○○○居ました。我国では、奈良の薬師寺○○が現在最も古く国宝級のものとして
有名ですが、此の佛足石も中世の技○な遺跡として大変貴重なものです。 安土城址 ハ見寺住職


登って行って眼前に見えた本丸

天守閣から見た本丸
登って行くと天守閣






ここで天守閣跡に別れを告げて、上って来た道を下り、途中から『帰路』に道を替えました。




ハ見寺本堂跡に、建造物はありません。

五重の塔と二王門は、当時のものが残っているようです。

      総見寺仁王門
 正面の柱間3間の中央間を出入り口とする楼門を三間一戸楼
門といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛?柵を設け、金
剛力氏の像をまつるための仁王門と名づけている。
 この門は棟木に元亀2年(1571)の建立を示す墨書銘がある
が、織田信長が天正4年(1576)築城に着手し、あわせて総見
寺を建てるに際し、甲賀郡から移築したと伝えられる。組物は上
下層と?三手先で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、
下層中央間の○入り○股や隅柱の上部についている頭貫の木
鼻などは室町時代末期の特徴をよく現している。
 木造金剛2力士像は、応仁元年(1467)の作で、重要文化財 
に指定されている。
    昭和52年10月         安土町教育委員会

二王門背面 二王門正面

この後、百々橋道を通って大手道に戻りました。百々橋を確認し忘れました。




近江八幡市安土町下豊浦2753にある安土セミナリヨ跡
次回近江八幡市に行けるチャンスがあったら、ぜひ行きたいものです。








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