多 羅 尾 家 と 代 官 に つ い て |
多羅尾家は、近衛経平(1287−1318)、高山師俊(もろとし)を祖と称して、代々近衛家の信楽 |
荘の荘官として活躍し、次第に在地領主として力をたくわえ、戦国期には、その勢力を山城方面に活 |
躍し、甲賀武士の中でも有力国人としての地位を築きました。 |
天正10年(1585)の「本能寺の変」に際しては、多羅尾家当主の光俊(みつとし)が、堺に滞在中の |
徳川家康の三河帰還を助け、いわゆる「神君伊賀越え」に際して伊賀甲賀の道中警護に尽力しました。 |
その後、豊臣政権下の文禄4年(1595)に起こった関白秀次事件に連座して、多羅尾家は改易さ |
れましたが、家康によって江戸で保護を受け、ついで江戸幕府が開かれると光俊の子たちも旗本に |
取り立てられ、慶長5年(1600)に光太(みつとも)が信楽に帰還し、併せて代官に任じられました。 |
以後、明治になるまで、多羅尾家当主は世襲代官として多羅尾に陣屋をおき、近江・河内・伊勢・ |
大和国の天領を治めました。 |
代官の責務は、高い実務能力と思い責任が課せられたことから、江戸時代を通じて世襲代官を務め |
たのは、韮山代官の江川家、京都所司代の小堀家等ごく少数です。 |
多羅尾家が数度の危機を乗り越え世襲代官として存続できた理由の一つに、家康の伊賀越えに尽 |
力した特別の功績があったためだと謂れています。 |