見て歩く日本の城と史跡ー滋賀県甲賀市(2)


幕末まで続いた多羅尾代官の陣屋跡(信楽町多羅尾)

とても楽しみに出かけたのに、夏季は閉鎖していると知って、
本当にがっかりしました。
多羅尾文化センターにお電話してみてもどなたも出ませんでした。
帰宅して数日してから、再度お電話したところ、普段なら予約して
おけば、入れていただけるそうですが、今年はコロナで、それも
できなかったそうです。
この頁は、送っていただいたパンフレットを参考にしながら作りました。
いつか、陣屋跡が開いているときにもう一度行きたいと思っています。
                 (20/ 8/ 9 訪問)
(いただいたパンフレットより 以下も同じです。)


(現地案内板より)

多 羅 尾 家 と 代 官 に つ い て
 多羅尾家は、近衛経平(1287−1318)、高山師俊(もろとし)を祖と称して、代々近衛家の信楽
荘の荘官として活躍し、次第に在地領主として力をたくわえ、戦国期には、その勢力を山城方面に活
躍し、甲賀武士の中でも有力国人としての地位を築きました。
 天正10年(1585)の「本能寺の変」に際しては、多羅尾家当主の光俊(みつとし)が、堺に滞在中の
徳川家康の三河帰還を助け、いわゆる「神君伊賀越え」に際して伊賀甲賀の道中警護に尽力しました。
 その後、豊臣政権下の文禄4年(1595)に起こった関白秀次事件に連座して、多羅尾家は改易さ 
れましたが、家康によって江戸で保護を受け、ついで江戸幕府が開かれると光俊の子たちも旗本に
取り立てられ、慶長5年(1600)に光太(みつとも)が信楽に帰還し、併せて代官に任じられました。
 以後、明治になるまで、多羅尾家当主は世襲代官として多羅尾に陣屋をおき、近江・河内・伊勢・
大和国の天領を治めました。
 代官の責務は、高い実務能力と思い責任が課せられたことから、江戸時代を通じて世襲代官を務め
たのは、韮山代官の江川家、京都所司代の小堀家等ごく少数です。
 多羅尾家が数度の危機を乗り越え世襲代官として存続できた理由の一つに、家康の伊賀越えに尽
力した特別の功績があったためだと謂れています。

多羅尾代官陣屋跡が見えてきました。

この建物は史跡ではないようです。

入口にあった看板 がっかりしました。

入口の外から、写真を撮りました。
これは、何でしょうか?


この写真を見たいなぁ、と残念でした。


多 羅 尾 代 官 陣 屋 跡
 「信楽御役所」「信楽陣屋」とも呼ばれ、屋敷は多羅尾家居館件代官所として機能しました。
 敷地は、南北にやや弧を描くようにのび、陣屋建物や庭園があった上段郭と伝承される下段郭に
別れ、その中ほどに東から入る正面入り口が設けられています。
 建物は現存しませんが、聞き取りなどによって、主屋、表庭園、北庭園、代官蔵、墓地が比定でき、
古写真によって茅葺の主屋に格式の高い瓦葺きの玄関を供えていることがわかります。
 これまでの試堀調査や多羅尾家に残された資料から、北庭園の社殿が嘉永元年(1848)に再建、
小書院が嘉永2年(1849)に建替され、多羅尾純門(ひろかど)が代官職にあった天宝8年(1837)
から慶応3年(1867)の間に陣屋全体が修築されたと考えられます。
 また、主屋の正面玄関の式台の位置に、音響装置と推定される大きな信楽焼きの甕を設置した北
海道の「五稜郭」内に置かれた箱館奉行所との関連が注目されます。



最後の代官多羅尾光弼氏

 地域の方から提供いただいた古写真に彩色しています。
 大正から昭和初期に撮影されたと考えられ、中央に移る建物が代官屋敷の主屋で、
左翼奥にも瓦葺きの建物があることから、巨大な瓦葺きの東西棟に、豪農用の茅葺の南北
棟が連結し、正面には八母屋造りの玄関を設けるなど代官所としての格式の高さを示すよう
に造られていたようです。
 なお、この建物は、多羅尾家に残された記録から19世紀中頃に建築されたと推測できます。





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