見て歩く日本の城と史跡ー東京都八王子市


横山党根拠地(元横山町)

小野妹子、小野東風、小野篁、小野小町などを輩出した小野氏が、横山氏と名前をかえて
住み着いたという場所が八王子市横山町です。
元横山町には、縁の妙薬寺、横山神社があります。
妙薬寺、横山神社は結構離れていますが、かつては同じ敷地で、ここに横山氏の屋敷があったのだそうです。
かなり広大は屋敷だったと思えます。横山氏は、相模原市とその近郊へ勢力の伸ばしました。

                               (05/11/20 訪問)

横山神社由緒由来記
                          八幡・八雲神社奉賛会   第五回全国めぐりサミット実行委員会
(現地案内板より 以下も同じです。)


前九年の役
平安時代後期に起った源頼義,義家による陸奥の俘囚長安倍氏討伐戦。当時陸奥6郡を支配し勢力のあった
安倍頼良 (頼時) が,国府に貢賦を納めず,徭役もつとめないので,太守藤原登任 (なりとう) ,秋田城介平繁
成らはこれを討伐しようと攻めたが失敗したため,朝廷では永承6 (1051) 年源頼義を陸奥守に任じてこれを追
討させた。頼良は一時帰服したが,頼義の守任期終了まぎわの天喜4 (56) 年反乱を起し,頼義側の宿営を襲
撃して衣川に拠った。頼義は重任して安倍氏征伐にあたり,翌年頼良を敗死させたが,頼良の子貞任 (さだとう)
を中心にした安倍氏の結束は堅く,頼義らの苦戦は続いた。しかし出羽の俘囚清原光頼,武則らの応援を得て,
康平5 (62) 年ようやく貞任を倒してこの乱を鎮定した。同7年貞任の弟宗任らは伊予に流された。
( ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田
義盛の反乱である。鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受
けて、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場
で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。
合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力で勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。
この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。
(ウィキぺディアより)

妙薬時(元横山町3-18) 文和4年(1355)創建  境内は、横山党の本拠地だったそうです。
妙薬時境内にある横山将監小野秀綱供養塔  永禄3年(1560)造立という伝承を持つ。
和田合戦で負けた後も、横山氏の末裔がこの地にいたということになりますね。

八幡八雲神社

小さな横山神社
八幡八雲神社は、鉄筋コンクリートでできた、
大きくて立派な神社です。
小野氏が武蔵守としてこの地にやってきたとき、
岩清水八幡宮を勧請したのが始まりとか。

横山神社は八幡八雲神社の境内にあります。
小ぶりというか、とても小さいというか、
八幡八雲神社の大きさに圧倒されます。
横山神社は横山党の始祖横山義孝を祀った神社で、
和田合戦で横山党が敗退した後、
この地を支配した大江広元が建保2年(1214)に
創建したと言われています。
横山神社の隣、横山党根拠地の案内板

妙薬寺の門から中に入ろうとしたとき、
立派な門扉に 三つ葉葵の寺紋が付いていました。
チョット気になり、 お寺の方にお伺いしたところ、
江戸時代に徳川11代将軍 より拝領したとのことでした。
どんな理由で拝領したのか 重ねてお伺いしたかったのですが、
ご多忙の様子でした ので又の機会にと思いました。

 横山党・相原氏の居城だった説もある殿丸城(鑓水530−2)

 八王子市鑓水にある殿丸城跡は、かつて横山党・粟飯原氏(以下相原氏)の居城ではなかったか?という説が
あるけれど、定かではないという記事をネットで見つけたので、行ってみました。
 PC上には殿丸城の案内があるのですが、現地には案内板も何もありません。探ってみたかったのですが、車を
停める場所もなく、仕方なくのろのろ運転しながら数枚の写真を撮って来るに止めました。相模原市相原の相原
八幡宮が相原氏の居館跡だという説もあるようですが、相模原・町田付近に住みついた横山党は、境川、相模川、
恩田」側等、川が近いところに居館を構えていました。殿丸城跡は、峠のてっぺんのような場所なので、水は井戸を
堀田にしても潤沢ではなかったように思えます。
 結論として、境川にほど近い相原八幡宮の方が、相原氏居館跡に思えてきました。殿丸城が詰の城、相原八幡宮
が根小屋だったとも考えられますが、少し遠いですね。     (23/02/25 訪問)



幾つかの看板は、殿丸城を指すものではありません。

勝手に空堀跡ではないかと・・・。
平になっているところは、かつて廓だったのでは?と思いました。



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