見て歩く日本の城と史跡ー東京都世田谷区

奥州(武蔵)吉良氏の居城だった世田谷城(豪徳寺)

世田谷城は、吉良氏の居城でした。
吉良氏と言うと『赤穂浪士』で有名な吉良上野介を思うのですが、奥州(武蔵)吉良家です。
上野介の三河吉良氏と奥州吉良氏は、ルーツを辿れば清和源氏足利氏に行き着きます。
世田谷城の奥州吉良氏は、後北条氏の傘下に入っていましたが、後北条氏の滅亡後
開城し、蒔田氏(まいた)として正式に改名しました。
しかし、『元禄赤穂事件』によって三河吉良氏が断絶した時に、「吉良」に復姓し幕末を迎えました。
現在豪徳寺のある場所が吉良氏の居宅だったそうです。   (17/11/30  訪問)


(現地案内板より  以下も同じです。)




世田谷城の遠景

東側の大きな郭跡への上り口
東西の郭を分ける掘跡


 東の郭跡

   郭跡の西側の土塁跡
 
 東西の郭を分ける掘跡

   郭跡を振り返る。
 
 東西の郭を分ける掘跡    西側の郭への上り口

彦根藩主井伊家墓所豪徳寺(豪徳寺2−24−7) 

後北条氏が滅亡したとき欧州吉良氏の世田谷城は、廃城になりました。
江戸時代に入って、この付近は井伊家の飛び地の所領地となりました。
彦根井伊家2代目井伊直孝が領内の弘徳院を菩提寺としましたが、死後彼の法号に因んで
弘徳院は、豪徳寺と改名されて現在に至っています。

豪徳寺は、世田谷城の中の吉良氏の居宅があった場所にありますが、
豪徳寺周辺には、世田谷城であったと思われる箇所がいくつか残っています。


彦根井伊家というと、初代井伊直政と幕末の井伊直弼が広く知られていますが、
井伊直孝も興味深いエピソードを持つ人物で、『招き猫』も彼のエピソードから生まれたものです。
                          (17/11/30  訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


豪徳寺参道の松並木

参道の東側、世田谷城の土塁だったのでは?と思われます。

 
豪徳寺山門

  山門の東側、世田谷城の遺構と思われます。

 
世田谷城の遺構と思われます。

 
豪徳寺境内

 
仏殿・屋根に井伊家の家紋

 
三重の塔

   
 
招福殿

 
招福殿内の招き猫  



              都史跡  井伊直弼墓
                  所在:世田谷区豪徳寺2丁目24番7号 豪徳寺
                  指定:昭和47年4月19日
 井伊直弼(1815〜60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、〇〇月大老となる。
勅許を得た10月日米修好通商条約など安政5ヵ国条約に調印。また13代将軍家定の後継者を
慶福(後の家茂)に決定し〇〇派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の
大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に安政7年3月、江戸場外桜田門外に
おいて、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
 世田谷郷は井伊家領であり、〇〇は〇〇に埋葬された。
 墓石の高さは342センチ、正面に『宗観院殿正4位上前羽林中郎将暁覚翁大居士』とある。
    昭和47年10月30日 〇設
                                東京都教育委員会

井伊直弼の墓 井伊直孝の墓



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