見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県笛吹市

石和八幡宮(石和町市部1094)

石和の市街地を通るR411(旧甲州街道)沿いにあります。
八幡宮は、源氏の守り神で、石和八幡宮の歴史は次のようになります。
岩清水八幡宮(京都)→鶴岡八幡宮(鎌倉)→石和八幡宮(石和町)→府中八幡宮(甲府)
武田信義の子石和五郎が鶴岡八幡宮をこの地に勧進した(1192年)のが石和八幡宮です。
永正16年(1519年)武田信虎が、居館を石和館から甲府の躑躅ヶ崎の館に移したとき、
石和八幡宮も甲府市内の府中八幡宮に勧進されました。

その後も、石和八幡宮は武田氏によって篤く尊崇されました。
天正10年、武田家が滅びたとき、石和八幡宮は織田の軍勢によって焼かれてしまいましたが、
その後、徳川家康によって再建されました。

現在の建物は、1774年に建てられたもので、石和町最古の建造物だそうです。
                                  (06/ 3/17 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



武田勝頼の遺児の墓・芍薬塚(春日井町鎮目526)

芍薬塚というロマンチックな名前に惹かれ、見に行きました。
お目当ての塚は、個人のお宅の敷地内にあり、何度か声掛けをしたのですが、生憎お留守のようでした。
でも、折角なので、できるだけ敷地に入らないよう心がけ、写真だけ撮らせていただきました。
案内板もあったのですが、すっかり色落ちして何も読めません。帰宅してからネットで調べた概要が以下
の通りです。                          (23/ 6/27 訪問) 
 
武田勝頼が新府城から落ちて行く途中、幼子だった息子を家臣に託し分かれたのですが、幼児は
母を求めて泣き続け、ついには病死してしまいました。そのことを憐れんだ家臣は幼児を埋葬し、
幼児がが好きだった芍薬を墓の周囲に植えた、というのが芍薬塚の名前の謂れだそうです。

左が勝頼遺児のお墓

角度を変えて撮った写真です。



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