見て歩く日本の城と史跡ー長野県佐久市(1−2)

幕末に築城されたもう1つの五稜郭(田口3000)

幕末に五稜郭が2城築城されました。
その1つ長野県佐久市にある龍岡城は余り有名ではありませんが、なかなか見ごたえがあります。
三河と佐久に領地を持つ三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(のりかた)(大給恒)は、
幕末動乱期の慶応3年(1867年)に拠点を田野口に移すことを決めました。
五稜郭は、実戦上、きわめて優れた城郭で、敵からの死角をなくすことができるそうです。
ぐるりを堀で取り巻くようにつくる予定が、徳川幕府の崩壊によって工事は中断されて、
そのままになってしまいました。
明治政府が全国の城郭の取り壊しを命じたことから、龍岡城五稜郭も
その多くが取り壊されてしまいました。
しかし、御殿の一部である御台所(おだいどころ)だけは、場所を変えて移築され、
現在でも当時を知る遺構として五稜郭内に残されています。

五稜郭の中は、今は小学校として使われていて訪問した日、子供たちが野球に励んでいました。
                              (03/10/14 訪問)

もう一度五稜郭を訪問する機会があったので、更に画像を加えて、この頁をリニューアルしました。
小学校を移転して、お城の建物を復元するという計画があると『であいの館』の方に
伺って嬉しくなりました。完成したら絶対見に来ます。   (21/ 3/17 訪問)


左の色紙は、大給恒氏の末裔が書かれたもので、現地で300円で販売していました。
サイズ:10cmX15cm

(現地案内板より 以下も同じです。)


(現地でいただいたパンフレットより 以下も同じです。)



大 給 恒
日本赤十字をつくり育てた人
YUZURU OGYUU 1833〜1910
日本赤十字社長野支部
創立100周年記念1989

 『西南戦争』が勃発したとき、松平家の旧藩主らが中心となり戦地の戦病者を救護する
私設組織『博愛社』が設立された。その中に桜井松平家の16代当主桜井忠興がいた。
やがて忠興らのこの活動が明治政府に認められ、日本赤十字が誕生するのである。
 当時忠興自身は、尼崎で神職をしていたが、博愛社の理念に深く共感し、自らの屋敷
の半分を博愛社事務所として提供した。それが現在の東京逓信病院(東京都千代田区
飯田橋)で、病院の敷地に『日本赤十字発祥の地』という案内板がある。
 幕末、桜井松平氏は討幕派についたため新政府からの要請で松平姓を改姓した。
(『徳川武将列伝』 すずき孔著)より

龍岡城大手門

右手に田口招魂社

大手口から入って右手にある田口招魂社

堀の外から見る田口招魂社 御台所






内部の画像は、節穴等から撮ったものです。

内部を取り巻く土塁 小学校の運動場として使われています。

背面の堀がない場所




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