見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県松本市(1−1−5)

小笠原氏の支城・深志城/現松本城(丸の内)

深志城は、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして築城されたといわれています。
塩尻・勝弦峠の合戦で武田信玄に大敗した小笠原長時は林城に逃れ、一時深志城を拠点としましたが、更なる武田軍の攻を受けて
城を明け渡して敗走しました。信玄がその居館を拡張させたのが本格的な城郭としての始まりで、馬場美濃守が城代となりました。


馬場美濃守が長篠・設楽ヶ原の合戦で討ち死した後はその一門の信春が入城し、武田勝頼が新府城を焼いて引き退くまで統治しました。
長時は、上杉謙信を頼り謙信死後は織田信長に身を寄せましたが、天正11年(1583年)2月25日、織田家客分のまま会津で病死しました。
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原長時の3男小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名しました。


後に徳川家康を裏切ったという石川数正が豊臣秀吉から松本に8万石を得て、現存する天守閣を含む松本城の作成に着手しました。
しかし数正存命中には城の完成は見ず、2代藩主康長の時代に完成しました。康長は後に大久保長安事件に連座して、改易となりました。

信玄の城に見られる丸馬出しは全て埋め立てられ、現在では、深志城の名残は、何も残っていないそうです。 (11/ 2/ 4 訪問)
猛暑の中、松本市内の石川数正関連の史跡を見て回り、お城ももう一度見学しました。 (18/ 8/ 5 訪問)
小笠原牡丹を見るのを第一目的にして、再再度松本城を訪問しました。 (19/ 5/11 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

 
太鼓門櫓内の展示ー松本城
 
太鼓門櫓内の展示ー忍術の芥川家


 
御門A

 
二の丸裏御門

 
二の丸裏御門から見る御門A

  手前:御金蔵  奥:太鼓門
 
 
 
 
御金蔵


[二の丸御殿絵図]の拡大図はこちら

二の丸御殿跡 

[松本城太鼓櫓復元]の解説はこちら


平成元年11月に枡形が復元された二の門


本丸に繋がる黒門(一の門)

 
 
 
 
 
 
太鼓楼から見る堀
E太鼓楼

 

黒門    

国宝松本城天守閣
所有者 国(文部科学省) 管理団体 松本市
名称構造 建築
天  守 五重六階本瓦 推定文禄2〜3年
城主 石川康長
乾小天守 三重四階本瓦 上に同じ
渡  櫓 二重二階本瓦 上に同じ
辰巳附櫓 二重二階本瓦 寛永年代
城主 松平直政
月見櫓 一重地下一階附本瓦葺 上に同じ
特  徴
 5棟の建物は、天守を中心に北には乾小天守を渡櫓でつなぎ、東には辰巳附櫓と月見櫓を付属させた、
いわゆる連結複合式と呼ばれる独特の構成で、その外壁は○○とも白漆喰の大壁で○には黒漆塗りの
下見板を張ってある。月見櫓は天守建築には珍しい殿社風○○3方に漆塗りの回廊をめぐらしてある。
国宝指定 昭和11年4月 2日 国宝保存法
昭和27年3月29日 文化財保護法
修  理 昭和25年〜30年度 (全建物解体修理)

(現地でいただいたパンフレットより 以下も同じです。)

乾附櫓と渡櫓と大天守     大天守と辰巳附櫓と月見櫓
1590年(天正18)に石川数正が改築に着手、
子康長の代の1597年(慶長2)ごろに完成したと伝える天守閣。

 本丸


11/05/11 撮影

小笠原牡丹に気を取られて、『駒つなぎの桜』のことを忘れてしまいました。
で、現地でいただいたパンフレットの画像を使わせていただきます。

天守閣から見る若宮八幡跡と埋橋

月見櫓の内部


月見櫓から見た本丸
本丸から見た月見櫓

内堀の外から見た月見櫓
埋門と埋橋

若宮八幡跡
島立右近貞永が永正元(1504)年、井河の城を松本の地に移し深志城としました。
永正十四(1517)年島立右近が亡くなり、その嫡子島立七蔵が父をここにまつり、
深志城の鎮守としたと伝えられています。(現地でいただいたパンフレットより)



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