見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県松本市(1−1−6)

  女鳥羽川の治水を守るための鎮神社(大手4−4−15)

石川数正は松本藩の藩主だった時代に、松本領内の治水工事に尽力しました。
問題が多かった女鳥羽川の流れを変えることによって城下町の氾濫を防ぎました。
その守護神として創立されたほ鎮神社は、女鳥羽川の
ほとりで静かに女鳥羽川を眺めています。
                                          (18/ 8/ 5 訪問)


(現地案内板より)

小ぶりで可愛い鎮神社です。

女鳥羽川の流れ

石川数正が自分の菩提寺とした正行寺(大手5−6−36)

石川数正と長男康長(2代藩主)の菩提寺だと聞いて訪問しましたが、
特に案内板などありませんでした。
石川数正は、豊臣秀吉の命で朝鮮出兵に参戦するため九州に出向いたところで
病死し、愛知県岡崎市美合町にある本宗寺に葬られたという話があり、
ここ正行寺には、お墓はないように見受けられました。


松本に住む石川姓の人々が集まって、法要が営まれてきたのですが、
近年『松本石川会』の活動は休止されていて、法要は正行寺が行っているそうです。

                         (18/ 8/ 5 訪問)


石川数正縁の駅弁

石川数正というと、徳川家康を裏切り豊臣秀吉に走った人として悪いイメージが付きまといます。
しかし、松本に移封になった後、女鳥羽川の治水工事など領民のために力を尽くしました。
石川氏は、松本の基礎を作った人として、2代目康長が大久保長安事件に連座して
藩主の座を追われた後も、松本藩のの領民から尊敬され続けたそうです。

石川数正縁の駅弁があるというので、買ってみました。
お弁当としての味も良く、また容器が後でも使えるということもあって、よかったです。
この駅弁の由来が書いてあるのですが、月見の宴の絵を見ると、なんだかイメージが違う感があります。

因みに、数正生存中には天守閣は完成していなかったそうです。

『櫓膳』という天守閣の絵があるお弁当も買ってみたのですが、こちらはよくある普通のお弁当でした。
                                            (18/ 8/ 5 購入)



小笠原氏のかつての居城・井川城(井川城1丁目4552番地ロ)

武田信玄と度々争った小笠原長時から遡ること10代前の小笠原貞宗が造ったと言われる平城。
小笠原貞宗は足利尊氏の頃、信濃守護に任じられました。
このあたりは、川が入り組んでいて水が豊富であり、そのことから『井川』と命名されたそうです。
小笠原長時も武田信玄のこの城を使ったという伝承があるのですが、はっきりはしていません。
小笠原氏は、林城や深志城を造り、長時の時代には、そちらの方が多く使われたようです。
今は、畑の中に主廓の一部とされる櫓跡の伝承がある塚が残るのみです。
因みに『井川城』は、地名として残っています。
    (13/03/17  訪問)

(現地案内板より)

畑の中に残る塚

塚にある祠

近くの川にこんな橋がありました。 周囲にはこのような川が沢山!

井川城近く・大円山廣正寺  新明社 (井川城一丁目5)

左: 井川城近くにある大円山廣正寺。小笠原氏の家紋・三階菱があります。
お寺の由緒は分かりませんが、尼寺だそうです。
右: 廣正寺の隣にある新明社。武田氏の花菱の紋があります。
                     (13/03/17  訪問)






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