見て歩く日本の城と史跡ー福井県福井市(2)

 柴田勝家が築いた越前北庄城跡(大手)

(現地案内板より  以下も同様です。)


柴田勝家とその妻お市の方が非業の最期をとげた越前北庄城がどこにあったのか、
はっきりとは特定されていませんでした。

福井市にある福井城は、家康の次男結城秀康が築城したもので、かつて北庄城と呼ばれていたときもあったようですが、
北庄城→福居城→福井城と名を変え、最終的には福井城という名が定着しました。

いろいろな文献等から、勝家の北庄城の本丸はここであろうと推測された場所はありました。
平成8年〜16年にその場所を発掘調したところ、結城秀康築城による福井城の石垣等の下から、
北庄城の石垣がでてきたことから、北庄城の本丸の位置が特定されたそうです。

信長が越前の一向一揆を滅ぼしたあと、そのときの功績により越前49万石を与えられた勝家は、朝倉義景とその一族が
滅亡したあとの一乗谷に居を構えることなく、天正3年(1575)にこの地に城の構築に着手しました。


信長死亡のあと、織田家の跡目争いから羽柴秀吉と対立した勝家は、
天正11年(1583)4月、賤ケ岳の戦で秀吉軍と対決し、これに敗れました。
北庄城に逃げ帰った勝家は、北庄城にて妻のお市の方と共に自害し、北庄城は焼け落ちました。
城が焼け落ちたとき、まだ北庄城は、完成していなかったとも言われているほど豪壮な城で、
9層の天守閣を誇ったとも言われています。

現在、北庄城の本丸があったとされる場所には、柴田神社が再建され(再建かどうかも、以前どこかにあったのかも実は不明)
境内にはお市の方の三人の娘を祭る「三姉妹神社」もあります。

北庄城の本丸は、福井城の南端に位置していました。結城秀康が築城したおり、自分の好みの場所を選んだところ、
たまたま北庄城の本丸跡地がひっかかったということなのでしょうか。

福井城は本丸の石垣、堀、城の一部が現存し、現在は県庁等があります。
柴田勝家とお市の方の墓は、市内西光寺にあります。           (06/07/31 訪問)

◇ 茶々(淀君) (〜1615)

 お市の長女茶々は淀君とも呼ばれた。
母はお市の方で、父は浅井長政。長政は織田信
長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなっ
て柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、
その後、勝家が羽柴秀吉に敗れた時、茶々は2人
の妹(お初、お江)と共に、城を逃れた。

 茶々は豊臣秀吉の側室になって寵愛を受け、
秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康の
大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日
秀頼とともに大阪城内で自害した。
 享年49歳と伝えられる。
◇お初 (〜1633)

 お市の方の二女お初は、姉の茶々とともに秀吉
に引き取られ、後に従兄妹の京極高次に嫁ぎ、
忠高をもうける。
高次は慶長5年(1600)関ヶ原の
合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万5戦国)
となる。

 慶長14年、お初は夫と死別後、剃髪して常高
院と号した。この頃から度々淀君を訪ねている。
大阪の陣には、徳川家康の命を受け大阪場に使
者として入り、姉淀君と和平の交渉をした。寛永
10年(1633)8月27日江戸において死去。
 享年66歳と伝えられる。
         
◇お江  (1573〜1626)

 三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、
徳川二代将軍秀忠の正室になる。秀忠との間に
7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代
将軍に、
次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀君
の長男秀頼の夫人となり、二女珠姫は加賀藩前田
家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に
嫁いでいる。四女初姫は京極忠高室、五女和子
(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。

 寛永3年(1629)9月15日江戸城において
生涯を閉じた。享年54歳。


 
柴田公園にある柴田神社

?〜天正11年(1583)

天文16年(1547)〜天正11年(1583)
柴田公園にある二人の銅像

発掘された北庄城の石垣

発掘された結城秀康が築城した福井城の石垣

土  居
この『土居』が帰宅後どの画像に対応するか分からなくなりましたが、
多分、上の左の画像だと思います。



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