見て歩く日本の城と史跡ー福井県敦賀市(1)

新田義貞・織田信長の史跡金ヶ崎城(金ヶ崎1)

金ヶ崎城は、『金ヶ崎の退き口』で有名ですが、
南北朝時代に湊川の合戦で敗れた新田義貞が、一時退却して
籠った城でもあったのですね。金ヶ崎城跡に来て、後醍醐天皇の皇子
も新田義貞の嫡男義顕と共に壮絶な死を遂げたことを知りました。

『退き口』というと、関ヶ原の戦いで敵中突破した島津義弘を思います。
この地では、どんなことがあったのか、期待がありましたが、
余り具体的には、分かりませんでした。

しかし、令和元年のNHK大河ドラマに出てくるというので、楽しみに
待とうと思っています。
          (19/11/21 訪問)
(現地案内板より 以下も同じです。)

駐車場から見た金ヶ崎城跡。左の方が金ヶ崎城。右の方が天筒山城と思われますが、多分写っていないでしょう。







金崎宮の前を通る登城道を選びました。


自刃した新田義顕等を祀る絹掛神社

萬世一系を誇る我国の歴史で同時に2人の天皇が併立せられた南北朝57年、国内が大混乱に陥
った暗黒の時代であった。その一方で、天皇の神聖を絶対視する日本人の伝統精神が見事に発揮され
たのもこの時代である。南(宮方)と北(武家方)との峻烈な戦ひが全国の各地で始まった。延元2年
の金ヶ崎城でも激しい攻防戦が行われたが、戦ひはわずかに1日で幕を閉じ結果は南朝方の完敗に終
わった。南北合戦史上最も悲惨な出来事であった。
 星霜ここに650年、時の流れは滔々として、尽きることがない。南北二つの朝廷に分かれ、生死を賭
して争ったのも、今はただ歴史の舞台に現れたドラマのひとこまに過ぎず勝敗もまたときの運と言へよう。
 この碑を建て神霊を慰め奉ることを申し出られた加藤氏は足利高氏の末裔を自認する。滅亡の悲劇
に泣いた南朝及びそれに従った人々に深謝するとともに、不幸にして敵同士となって戦場の露と消え
た彼我の諸英霊鎮魂のために真心を捧げる決意をされた。その想ひは遠く鎌倉幕府の北条氏にまで及
ぶといふ。金崎宮との直接のつながりはないが、その徳は諒とせねばならぬ。時の隔りに介意せず、恩
讐さえも越えたこのうるわしい企てに深く賛意を表し、謹んで鎮魂の辞とする。
鎮魂之碑の裏面の文言を読んで、ジーンと来ました。

赤レンガ倉庫が見えます。


登城道の右側に。

金崎宮本殿跡記念○○ 階段を上ると窪が。
右側の縁を登ると『尊良親王御墓所見込地』



左の道選んで月見御殿跡に向いましたが、後でここに戻って焼米休憩広場に進みました。




月見御殿址 皇太子殿下降臨之跡
『皇太子殿下』は大正天皇でしょう。

月見御殿址から見た海は美しかった!

ここに戻って右方向に進みました。



二の木戸跡から愛宕神社に下る道があったのですが、一の木戸跡まで進んで戻り、それから愛宕神社へ下りました。



愛宕神社

天筒山城跡へは行かず下ってしまったので、Googleの写真をお借りしました。



朝倉氏攻めの折、信長が本陣とした妙顕寺(元町9−18)

1570年(元亀元年)、織田信長が朝倉義景を攻めたとき、まず朝倉景恒が籠る金ヶ崎城と天筒山城を攻めました。
結果、景恒は信長に対し開城したのですが、その後浅井長政の信長への離反が起こり金ヶ崎の退き口と
なるのですが、この金ヶ崎城攻めのときの信長の本陣が敦賀市にある妙顕寺なのです。
 (19/11/21 訪問) 

(現地でいただいたパンフレットより)





日本の城と史跡・目次][年表