見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県恵那市(1)

女城主の城・岩村城(岩村町城山)

戦国時代の城主遠山景任の妻は、織田信長の叔母・おつやの方でした。
おつやの方は女城主として、後世に名を残した人です。
景任は子供のいないまま病没したので、信長の5男勝長が家督を継ぎましたが、
勝長は幼かったので、事実上夫人が城主となりました。
元亀3年(1572)に武田信玄の東濃進出軍に攻められ、
総大将だった秋山信友とおつやの方が結婚することを条件に和議が成立し、信友が城主になりました。
そのとき信友は信玄から疑われることを避けるため、勝長を甲府に送ってしまいました。
信長は烈火のごとく怒りましたが、当時武田信玄に対して意義を唱えられる状況にはありませんでした。

天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼に勝利した信長は、嫡男信忠を大将として大軍を発し攻略しました。
5ヶ月の籠城の末降伏した秋山信友とおつやの方等は信忠本陣の大将陣で逆さ磔に処せられてしまいました。
その後、城主が川尻氏、森氏(森蘭丸を含む)、丹羽氏、松平氏と目まぐるしく交代しました。
そして、発足当時は2万石でしたが、途中加増があり3万石となって幕末を迎えました。

岩村城は、日本3大山城の中でも最高位の721mの高所にあります。
遺構は江戸時代のもので、戦国時代の遺構は残っていません。
地元の人々が大切に保存していると思われ、江戸時代の城の様子がよく伺えます。

本丸には、信長が宿泊したとの案内板があります。本能寺の変の80日前とのことで栄枯盛衰を感じます。
                                      (13/ 9/ 2 訪問)

遠山氏は12世紀末源頼朝の重臣加藤景廉の遠山荘地頭補任にちなんだもの
子景朝が(1203〜121?年の間に引継ぎを行い遠山姓を名乗る?(吾妻鏡)
以後200年間家系不詳
現在の山城が築かれ始めたのは16世紀の元亀年間以降 城主は目まぐるしく
交代。天文年間城主景前一族のまとめに成功(1555年)景任が跡を継ぎ織田
信彦の妹を室に迎えていたが、一貫して武田軍団の一員として行動している。
阿木城のAゲート登城口でいただいた資料が、
遠山氏の歴史を学ぶのにとても役に立ちました。

それで、『岩村遠山氏』の部分をここに入れさせ
ていただきます。元の資料は手書きですが、
ここではワープロで打ち直してあります。

『信長公記』(中川太古訳)に、天正3年(1575)
織田信長嫡男・信忠が岩村城を攻略した時の記述があります。
秋山信友、大島某、座光寺爲清が降参して出頭してきたのを召し捕り、岐阜に護送した。
この三人は長良川の河原で磔に掛けた。
この他の敵は、遠山市丞の櫓に追い詰められたが、時を移さず打って出た。遠山二郎三郎、
遠山市丞、遠山三郎四郎、遠山徳林、遠山三右衛門、遠山内膳、遠山藤蔵は散々に織田勢
を切り崩し、多数の兵に手傷を負わせたが、遂には討死した。

標高 721m 比高 150m
諸説あり

(現地案内板より  以下も同じです。)

岩村城の古い絵図を見よう!
クリックして下さい。



まず車で出丸(現在は駐車城)から本丸に向かいました。
途中、森蘭丸の人形が出迎えてくれました。

O 出丸(現在は駐車場)


N 本丸 織田信長宿泊地
『本能寺の変の80日前に信長が泊まる』

L東廓の長屋埋門

この後、車で城を降りて岩村藩主亭から逆方向に登りました。


@ 藩主邸宅跡

D 初門(岩村城第一の門)

E 大手一之門

F 土岐門(岩村城第二の門)

G 畳橋

■ 追手門は、畳橋から楼門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に
入る升形である。脇には、畳○を見下ろすように三重櫓が構えら
れていた。三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守に相当し、城
下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されている。
H 追手門・三重櫓

 I 霧ヶ井

J 八幡陣神社(現在は移転してここにはありません。)

本丸へと続く階段

岩村城攻めのときの織田信忠の本陣・大将陣(岩村町殿町)

天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼に勝利した信長は、嫡男信忠を大将として
岩村城奪還のため3万の大軍で攻略しました。

5ヶ月の籠城の末助命を条件に降伏した秋山信友、おつやの方、座光寺、大島等5命は
は信忠本陣の大将陣で逆さ磔に処せられました。5名の首を埋めたのが大将塚です。

助命を約束された岩村家の家臣(婦女子を含む)は、信州を目指して落ち延びようとしましたが、
木の実峠に隠れていた織田の兵士に襲われて、全滅しました。   (13/ 9/ 2 訪問)

(現地案内板より)

大将陣から見た岩村城

国道363号線沿いの大将陣公園

大将陣公園

巖邑城址碑

大将塚



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