見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県恵那市(2)

明智光秀産湯の井戸・千畳敷砦[落合砦](明智町後山)

明智光秀の生誕地伝承は、岐阜県恵那市明知町と岐阜県可児市瀬田の他に、同じ岐阜県内の
瑞浪市、山形市、岐阜市、大垣市などがありますが、歴史研究家によると、恵那市と可児市が有力のようです。
どちらが本当かはよく分からないのですが、まず、恵那市明智町を訪ねました。

明知城の前線基地であったという千畳敷砦に伝明智光秀産湯の井戸があります。
千畳敷砦は、現在は千畳敷公園になっています。

明知城は遠山氏の居城であったことを考えると、遠山氏と明智氏の関係がよく分かりません。
明知城内には、光秀学問所、供養塔、光秀母堂のお墓などがあります。


因みに、恵那市明智町は『大正村』という名の観光地で賑わっていました。  (13/ 9/ 2 訪問)







(現地案内板より 以下も同じです。)

伝明智光秀産湯の井戸

千畳敷公園の1番高い場所 千畳敷公園から見る明智町

武田軍と攻防を繰り返した明知城(明智町城山)

明知城は白鷹城とも呼ばれ、代々明知遠山氏の居城でした。
天正2年(1574)武田勝頼が2万の大軍を率いて東美濃に攻め込んだ時、明知城主遠山一行は
織田信長に援軍を求め、信長は息子信忠とともに3万の兵の明知城の西方鶴岡山に布陣させました。
武田家家臣山形三郎兵衛に退路を断たれた信長は、山岳戦の不利を考慮し、退却しました。
これにより明知城は落城しました。

関ケ原の合戦の折、明知遠山氏は明知城を奪還し、家康により旧領をを与えられましたが、
一国一城令により明知城は廃城となりました。
江戸期に入り遠山利景が6530石の旗本としてこの地に復帰しましたが、旗本は城を持つことが
できなかったので、大手門付近に陣屋を構えました。

江戸時代の名奉行・遠山の金さんは、知行500石の明知遠山家の分家の6代目に当たります。
                                         (13/ 9/ 2 訪問)

明知遠山氏の家紋
遠山氏の伝統的家紋 『丸に二引き』
主に分家が使用した。 『遠山九字直違い』(とおやまくじすじかい)

岩村遠山景朝の子景重を祖とし手向郷の地頭
その子景長は将軍供奉任(1272所領収公)

鎌倉期は明知氏が総領か?
南北朝期朝廉が足利尊氏に従って手向郷回復、孫の景房が継承
室町期を将軍近習、奉公衆で活躍
 *遠山明知大蔵少輔
 (1572年)
 飯羽間友信 明知城に籠城したが謀反を起こし落城に導いた。
      資料 岐阜の山城ベスト50を歩く より抜粋
阿木城のAゲート登城口でいただいた資料が、
遠山氏の歴史を学ぶのにとても役に立ちました。

それで、『明知遠山氏』の部分をここに入れさせ
ていただきます。元の資料は手書きですが、
ここではワープロで打ち直してあります。

上村合戦(かんんむらかっせん)とは、元亀元年(1570年)12月、甲斐と信濃を地盤とする武田信玄の軍勢が、徳川氏
の本拠地である三河を攻める目的で進軍している途中で、東美濃の恵那郡上村(現在の恵那市上矢作町)へ侵入した際に
遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した合戦。武田氏が勝利した。しかし、その後派遣された明知光廉(三宅長閑斎)の軍勢
と小田子村で戦った結果、武田勢は信濃の伊那郡へ撤退した。   (Wikipedia より)













漆原城跡(城山砦跡) 岩井戸城跡












(現地案内板より 以下も同じです。)








天神社

天神社の向こうの建物が伝明智光秀学問所


明知城時代の大手門付近に建てられたという明知陣屋跡



八王子神社の門
明知城からの移築だと言われています。


八王子神社
『光秀 手植乃 楓』



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