見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県恵那市・中津川市

遠山氏の名前の由来となった恵那山

恵那山は、尾張平野の北方に遠望できたので遠山とも呼ばれ、
恵那山のある地域名も、遠山と呼ばれていました。

遠山氏の先祖である加藤氏は源頼義に仕え、
前九年の役で活躍した恩賞として三重県津市の所領を賜りました。
加藤氏の館は、三重県津市南羽所にあったらしいのですが、詳しくは不明です。
伊勢の国加藤景廉は、源頼朝挙兵のときに武功を挙げ多くの所領を賜り、その中に遠山荘がありました。
景廉が死去した後、遠山荘の地頭職は長男の景朝が受け継ぎ、
この後、景朝は遠山荘に土着し遠山景朝と称し初代遠山氏となりました。

遠山七家:岩村、明知、苗木、飯羽間、大平(串原)、阿寺(明照)、安木(阿木)。
           安木の代わりに大井、明照に代わって馬籠を入れる説もあるそうです。

長野県富士見町入笠山頂上(1,955 m)から見た恵那山(中央一番奥)
恵那山は長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがっていますが、
頂上は長野県下伊那郡阿智村智里にあります。(標高2,191m)

遠山七家について(恵那市・中津川市)

遠山氏には18支城があったという・・・。
そしてその中でも、遠山七家は遠山氏の中心を成していたという・・・。
遠山七家のうち、岩村、明知、阿木、苗木は個別に取り上げてありますので、

ここでは残りの阿寺、飯羽間、大平(串原)について、阿木城A登城口でいた
だいた資料等をアップロードさせていただきます。
いただいた資料は手書きですが、ここではワープロで打ち直させていただきます。
遠山七家は、恵那市、中津川市の両市に散らばっていますが、恵那市の頁に
纏めてアップロードします。
                     23/ 6/ 6 記)




阿寺(妙照)
中津川市手賀野

岩村の支城として
<御坂古道記>
遠山の城
(1574)
武田勝頼が東濃に侵攻し、
木曽義昌により友重が
激戦で戦死した。




飯羽間
恵那市岩村町飯羽間2084付近


岩村から分出した一族  室町中期には将軍奉公衆
*遠山飯間宮内少輔
永禄末〜元亀の頃城主ー遠山友勝友忠
<丹羽氏聞書>
 城主右衛門は信長伯母婿也 其後
 遠山加雲(友勝)、同久兵衛(友忠)殿とある。
<寛永諸家譜>
 友忠の妻は信長の姪
 飯羽間氏は早くから武田家臣団に組み込まれていた。
 景行、直廉が病死すると信長は両城を手中にし 
 苗木城主へ友忠ー 友信ー飯羽間 城主となる。
友重ー阿寺
友政ー苗木


『信長公記』(中川太古訳)より
天正 2年 1574 1月 27日 武田勝頼岩村に出動し、明知城を包囲した。
2月  5日 織田信長・信忠親子が明知城救援のため出馬した。
6日 武田勢を攻めるはずであったが、地勢険しい山中で動きが取れなかった。
そこへ、城中で飯羽間右衛門尉が武田側に内応し、明知城はすでに
落城の報が来て、織田勢は撤退した。
10年 1582 飯羽間右衛門尉が生け捕りになる。飯羽間は、先年明知城で武田側に寝返
り、坂井越中守の親類を多数討ち果たしたので、信長は今度は坂井越中守
に命じて飯羽間を成敗させた。



大平(串原
恵那市串原4529

南北朝期に明知氏から分かれ成立。
室町幕府の直勤御家人となり、奉公衆に名を連ねる。
*遠山櫛原五郎
<丹羽氏聞書>
 城主 遠山馬之助、与五郎
 ・佐々木村屋舗に内衆
  渡辺新右衛門(阿寺在衆)
 ・下手向村
  渡辺権七郎
(1574年)
 武田勝頼東濃侵攻対象は明知、櫛原、阿寺か?
 落城後、明知利景に従い、関ヶ原合戦後利景より
 500石を宛行われた。




前田砦
(遠山七家には入っていません。)
恵那市上矢作町本郷
<丹羽氏聞書>
 上村、原弾正、月瀬村に原党 之元祖也
<恵那郡史>
 (1572年)
 上村合戦の際、明知景行の武将門野兄弟千騎を
 以って拠ったとあり。南に漆原城、三河、信濃、
 美濃に 接した 不安定な地域で、主城岩村を守
 る要所に構えられている。


MEMO
永禄 12年 1569 武田信玄遠山直廉に三木次郎右衛門尉を攻めさせる。(竹原合戦)
元亀 元年 1570 12月 武田信玄東濃侵攻(上村合戦)
3年 1572 武田信玄東濃侵攻(岩村城主夫人と秋山信友結婚)
4年 1573 5月 武田信玄没
天正 2年 1574 4月 武田勝頼東濃侵攻(明知城、阿木城陥落)
3年 1575 5月 長篠の合戦(武田勝頼敗北)
11月 織田信長親子、岩村城の秋山信友を攻め降伏させる。
10年 1582 3月 武田勝頼没
6月 本能寺の変(織田信長没)
慶長 5年 1600 10月 関ヶ原の合戦(遠山氏、明知城、苗木城を奪還)
江戸時代に入り、明知遠山氏は旗本、苗木遠山氏は1万石の大名として残った。
岩村城は2万石、後に3万石の大名として残ったが、遠山氏の手からは離れた。



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