見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県中津川市(1)

岩村・遠山氏の支城・苗木城(苗木)

苗木城は江戸時代にも使われていたので、戦国時代の遺構が残っているのではありません。
建物は何も残っていませんが、美しい石垣がしっかり残っていて見ごたえがあります。
大手門から本丸跡までいくつも門があってかなり登るのですが、よく整備されているので楽に登れます。

戦国時代、各地に散らばった遠山氏の城の中で、
本城が岩村城、明知城、苗木城、阿木城等が支城の務めを果たしました。
信濃と美濃の境にあることから明知城、岩村城、苗木城は武田・織田の攻防の場となりました。
武田家臣秋山信友により岩村城が武田氏の拠点となると、苗木城が織田方の拠点となりました。
信長が本能寺で死ぬと城主の遠山友忠は徳川家康に属しますが、
森蘭丸の兄弟である森長可に攻められ苗木城は落城しました。
森長可は、信長の死後羽柴秀吉の家臣となりました。

関ヶ原の戦いでは遠山友忠は徳川方として苗木城を攻めて勝ち、苗木城を奪い返しました。
江戸時代わずか1万石の城でしたが、城郭は目を見張る広大さです。 (13/ 9/ 2 訪問)




遠山苗木として植苗木を拠点とし室町期奉公衆で活動
*遠山左京亮
築城? (1521〜1526年) 遠山一雲入道昌利
(1532〜1555年) 遠山正廉(岩村から養子)
1498〜1532年まで小笠原家長の撤退により高森山に築城
(1583)森長可の攻撃により陥落 友忠、友政は浜松の徳川家康のもとへ
落ち延びた。その後1600年に苗木、岩村の奪回を命じ、木曽路→瀬戸→攻
めたため城代関治兵衛は〇走し、友政は苗木城を奪還した。
阿木城のAゲート登城口でいただいた資料が、
遠山氏の歴史を学ぶのにとても役に立ちました。

それで、『苗木遠山氏』の部分をここに入れさせ
ていただきます。
元の資料は手書きですが、
ここではワープロで打ち直してあります。

『信長公記』(中川太古訳)より
天正10年(1582)2月1日、信州木曽の木曽義昌が味方に転じたので、武田征討
の軍を出すようにと苗木の遠山友忠が調略の成功を織田信忠に伝えて来た。
天正10年(1582)2月26日、織田信忠vs武田勝頼の戦いで、木曽義昌の軍勢も
遠山」友忠父子が加わり、奈良井坂から駆け上がって鳥居峠で合戦となった。

竹原合戦は、永禄12年(1569年)美濃国苗木城主の遠山直廉が武田信玄の命により、三木自綱の弟で武田氏から離反した
三木次郎右衛門尉を攻めたもの。大威徳寺の合戦とも呼ばれる。直廉は、岩村から養子に入った正廉の息子である。この合戦
で兵火により大威徳寺は、消失した。直廉は流矢により傷を負い苗木城に戻り6月18日、この傷が原因で死去した。
大威徳寺は、この戦で多くに堂塔が消失し、残っていた堂宇も天正13年(1586年)の天正地震で消失した。(Wikipedia より)


標高 432m 比高 170m
諸説あり
(中津川市作成のパンフレットより)

大手門

城郭に続く石畳

風吹門跡

馳門跡(ここからも城外に出られます。)
大門跡(本丸に続きます。)

綿蔵門跡
坂下門跡


菱櫓門跡
本丸口門跡


本 丸 玄 関
 

本丸には天守台が作ってありました。

天守台から見る本丸

画面左に馬洗石

 天守台から見る木曽川
玄関口門跡 赤い丸が玄関口門
苗木城絵図 享保年間

玄 関 口 門
 玄関口という名のとおり、この門を
抜けていくルートが、天守への正式
な道でした。

この門の先には土廊下の建物が続
いており、奥は小屋につながってい
ました。

 通常は鍵が掛けられていて、ここ
から中に入ることは禁じられており、
鍵は目付役が管理していました。
 


 笠置矢蔵跡(本当は三層だったとか)



馳門跡近くにある大矢蔵跡の見事な石垣

大矢倉跡近くの北門跡 19号線から苗木城に向かう途中
木曽川の手前にある赤壁城伝説の碑




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