| 安木孫太郎等について | 
                        
                        
                          |  永享3年(1431年)の『永享以来御番帳』・文安元年(1444年)の『交安年中御番 | 
                        
                        
                          | 帳』と長享元年(1487年)の『常徳院殿』の全てに遠山安木孫太郎の名が見える。 | 
                        
                        
                          |  長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)に長享・延徳の乱が勃発した際に将軍足 | 
                        
                        
                          | 利義尚方として土岐政房と共に三番衆として、遠山安岐孫次郎の名が記されている。 | 
                        
                        
                          |  元亀元年(1570年)12月には、明知遠山氏・苗木遠山氏・串原遠山氏・飯羽間遠山 | 
                        
                        
                          | 氏と共に、安城遠山某が武田氏の侵攻に抵抗し、武田家重臣の秋山虎繁と戦って  | 
                        
                        
                          | いる(上村合戦)。遠山譜によると、遠山某については安木遠山三郎左衛門と記述 | 
                        
                                    
                                      | されている。 | 
                                    
                                    
                          |  天正2年(1574年)武田勝頼の軍勢が東濃に侵攻した際に、阿木城と、阿木村の | 
                        
                        
                          | 龍泉寺・大禅寺が 焼討され滅亡した。その後、安木遠山氏の記録は無いため、 | 
                        
                        
                          | この時に滅亡したとみられる。 | 
                        
                        
                          |  武田氏の東濃侵攻を記した『甲陽軍鑑』に安木の名は見当たらない が、ふった | 
                        
                        
                          | という地名が記載されており、『巖邑府誌』ではこれを安木とする。 | 
                        
                        
                          |                     (Wikipedia より) |