見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県中津川市(2)

阿木(安木)遠山氏の居城だった阿木城(阿木1406 他)

 日本には山城が2万程もあったという話を聞いたことがあります。そしてその多くが山に戻ってしまっていると・・。
山城の中には、廃城後神社や寺院、そして学校や公園が造られたものがあります。新しい建造物が造られると、
人の往来も多く、忘れられることはないのですが、遺構が壊され残念な姿になってしまったものもあります。
 阿木城は建造物が建てられることもなく長く眠っていたのが、平成に入って目覚めさせられ甦ったようです。
それだけに遺構がしっかり残っていて、山城好きには堪らない城です。
 阿木城は、城主が安木氏と名を変え戦国時代まで活躍したようですが、武田勝頼の東濃侵攻のとき落城し
その後甦ることはなく、江戸時代は岩村藩に組み込まれたようです。

 山城を訪ねるとよく思うのが、維持管理のたいへんさです。日本百名城や続日本百名城に選ばれた城は、行政から
の支援も厚いでしょうが、それ程厚い支援が受けられない場合、ボランティアの活動がなければ、樹木は伸びるし、草は
繁茂します。一度整備しても、もし長年放置すれば、山城はまた山にに戻ってしまいます。
 杖や資料を用意して下さっている『阿木城跡保存会』の皆様に感謝しながら、阿木城を楽しませていただきました。
そして、このホームページを作りながらこのページに来て下さった人が、一人でも「阿木城に行ってみたい!」と思っ
てくだされば、嬉しいです。                             (23/ 4/27 訪問)

 追記:西の曲輪と東の曲輪には、行けませんでした。
標高 541m 比高 60m
Aゲート 登城口 (林道沿いに駐車場があります。)

よしまるやさん
阿木1519−1
0573-63-2311
扉を開けると阿木城の資料あり。 脚の弱い人は、ぜひ杖を!
阿木城跡保存会: 岐阜県中津川市阿木33 阿木公民館 0573-63-2001


<恵那叢書>
     阿木城 阿木村ニ在 本城亦岩村支城ニシテ
     本庵第三世ノ二子遠山左〇門三郎景賢ヲ以祖トス
            城主歴代
       二世 遠山右来門太郎景経
       三世 遠山太郎景高
       四世 遠山又太郎景平
            室町期奉公衆
 *安木孫太郎は子孫ノ内ナル可シとあるが
   築城等詳細不明
上の資料、左の資料、下の資料は、Aゲート登城口
ボックスからいただいたものです。

阿木城の遺構は楽しめたのですが、阿木城にどんな人が
住んでいたか、どんな歴史があったか分からず、やや物
足りなく思っていたところ、これら資料に出会え、たい
へん満足しました。
これらの資料を作って下さった方に感謝しています。
それで、『阿木遠山氏』の部分をここに転載させていた
だきます。原文は自筆で書かれておりますので、
内容を変更することなく、ワープロ書きとさせていただ
きました。


安木孫太郎について
 永享3年(1431年)の『永享以来御番帳』・文安元年(1444年)の『交安年中御番
帳』と長享元年(1487年)の『常徳院殿』の全てに遠山安木孫太郎の名が見える。
 長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)に長享・延徳の乱が勃発した際に将軍足
利義尚方として土岐政房と共に三番衆として、遠山安岐孫次郎の名が記されている。
 元亀元年(1570年)12月には、明知遠山氏・苗木遠山氏・串原遠山氏・飯羽間遠山
氏と共に、安城遠山某が武田氏の侵攻に抵抗し、武田家重臣の秋山虎繁と戦って
いる(上村合戦)。遠山譜によると、遠山某については安木遠山三郎左衛門と記述
されている。
 天正2年(1574年)武田勝頼の軍勢が東濃に侵攻した際に、阿木城と、阿木村の
龍泉寺・大禅寺が 焼討され滅亡した。その後、安木遠山氏の記録は無いため、
この時に滅亡したとみられる。
 武田氏の東濃侵攻を記した『甲陽軍鑑』に安木の名は見当たらない が、ふった
という地名が記載されており、『巖邑府誌』ではこれを安木とする
                    (Wikipedia より)
ネットで調べた龍泉寺跡
因みに大禅寺跡は見つかりませんでした。

(現地案内板より 以下も同じです。)


青字の箇所は、立ち寄った場所です。



a


b

c


d

竪堀です。右側で堀切に繋がっています。

 写真では分かりにくいですが、堀切です。
この後、東曲輪に行こうとしました
e
Cゲート登城口orDゲート登城口
 林道を北に進んで城跡内に入りました・。


この当たりが東曲輪かと思ったのですが、結局『東曲輪』の案内板のある場所が
見つからなかったので、『堀切』の案内板まで戻り、帯曲輪に上がりました。

f
g

帯曲輪に上ると、本曲輪は目の前でした。
ここから本曲輪の切岸を左側に見ながら、反時計回りに帯曲輪を回りました。因みに、
時計回りに回ればすぐ近くに『二の曲輪』の案内板があったのに、気が付きませんでした。





h
びっくりするほど急だったけれど、北側の虎口から主廓に上りました。
主廓はとても広くて平らで、取り囲む土塁などはありません。

i



j
南側の虎口(大手門)から帯曲輪(二の曲輪)に下りました。


k
二の曲輪の先が帯曲輪になっています。
これで一応の見学を終えて、下城しました。

動物に食べられないよう、『花いかだ』が網で保護されていました。

Aゲート登城口付近から見る阿木の部落

『ガマズミ』が見ごろでした。

『阿木城跡保存会』の方が大切になさっている蘭
私達登城者も、阿木城の植物を大切にしましょう。




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